2010年3月18日木曜日

自分を自己採点すると何点ですか?理由とともに記述して下さい。(200~400字)

客観的に分析するならば、基準は個人を逃れられない。評価は分野ごとに乖離するし、あるいは些末な差異は、現実的には無視できる誤差だ。その上で強引に採点を強行するならば、普通は過去を参照する。なぜならば歴史の記録する事象は、些末であれ存在を肯定されるからだ。そしてここから導かれる結論としては「履歴書を見よ」となる。なぜならそこには記録可能な歴史が書かせているからだ。それはもちろん恣意性ではあるが、それを参照することでその者が基準値に達していかいないかを見極めることができるのだ。また依然として分野ごとの乖離の問題か残るという議論はあるかもしれないが、それはコミュニケーションと企業の恣意性の問題として解決していただきたい。一緒に仕事をしたくない人間や、ボディビルダーを目指すデザイン会社志望はその必要性を問われてしかるべきだ。つまり私のようなニート(0点)である人間に対してこのような文章を書かせるべきではいという一つのモデルケースを示したかった。399

監視社会。

監視社会である。日本における地下鉄サリン事件、アメリカを発端として全世界に波及した同時多発テロ。それらを経験して世界はますます息苦しさを強めつつある。しかし監視体制を厳しくするばかりでその内実は伴っているのだろうか。特に我々日本人はカメラやGPSを付けておくだけで安心になった気になってはいないだろうか。あればいいというグランドヴィジョンの見えない方法論では、プライバシーが記録された映像へのリテラシーが低いままである。ではどうするべきか。私は監視カメラによるプライバシーの流失を体感することを提案する。大衆にとって監視された自分を見る機会は皆無のはずである。プライバシー保護の観点から例え自分が映っていようとも監視カメラに記録された映像を一般の人に見せることは出来ない。(現に我が武蔵野美術大学においても私が監視カメラの記録を見せてもらえる様に頼んだが断られた。)このリアリティの欠如した現状が盲目的に監視の体制を強めていると確信する。今回卒業制作においてはWEBを媒介にし、展示会場外でリアルタイムに映像が流出するインスタレーションを制作したい。
また政治的な発想になってしまうかもしれないが、拡大解釈すればアンチ監視社会はアメリカ式プラットフォームに対するアンチテーゼへとたどり着く。それは一つ作家としての思想的立場になりうるであろう。私は今回、その立場にもコミットメントしようと考えている。卒業制作という「学生」という立場での制作としては最後の課題において、私はこれから私が飲み込まれる社会というものに対して、不完全ながらも何らかの答えを提出したいと考えたからだ。これは私が学生という立場から放つ最後のあがきであり、だからこそ卒業制作という社会へと旅立つ前に行わなくてはならない総仕上げとなる。

3月19日のイベント詳細。

このたび私たち渋家は3331アーツ千代田というアートセンターのオープニングイベントにてパフォーマンスをすることになりました。
3331アーツ千代田とは、国内初の民間主導型アートセンターで、東京芸術大学准教授の中村政人が主催のコマンドNという合同会社が経営しています。
将来的には東京を中心として日本、ひいては東アジアのハブとして機能するようなアートセンターを目指しています。
オープニングイベントのテーマは「見る前に跳べ」ということで私たち渋家も全力を尽くしてパフォーマンスすることになりました。
歌あり、踊りあり、笑いあり、記憶に残るパフォーマンスになること請け合いですので是非ともいらっしゃってください。

日時
3月19日18時~

場所
3331アーツ千代田1階展示室
(東京メトロ銀座線末広町駅4番出口より徒歩1分・東京メトロ千代田線湯島駅6番出口より徒歩3分・JR御徒町駅南口より徒歩7分・JR秋葉原駅電気街口より徒歩8分)

料金
一般800円、高校・大学生500円、中学生以下無料

出品作家
日比野克彦(アーティスト)、藤浩志(美術家)、八谷P&中川基・萩野剛・鈴木ヒロシ(化学者・技術者・Maker)、ゼロダテアートプロジェクト(秋田県大館市)、王俊傑(アーティスト)

2009年12月13日日曜日

実存アーキテクチャ

新しい何かを生み出したいと考えるとき、刹那、私は考える
考えたものを言葉にしてそれをひらりと具現化させる

しかし困ったのはここからだ
言葉が死んでしまう、すぐに死んでしまう、いつも死んでしまう

私は死んだ言葉が嫌いだ

死んだ言葉で埋め尽くされた文章は剥製になるまで見たくない

剥製になった言葉は私の中ですでに過去の遺産として取り扱える
それならばまだ、見ることができる
しかしそれには長い時間がかかる

ブログに文学は勝つことができない
なぜならブログには更新機能がついているからだ

これがアーキテクチャにコンテンツが負ける瞬間である

今まで何度も自分の文章を殺してきた
結局、生かすことはできなかった

自分の文章が死なない程度すら強力な魂を与えることはできなかった
それだけの力さえ、自分にはないのだ

これはいつも強烈な絶望となって私を追い詰める
私には、文章を生かす、才能がないのだ

いつもそんなことを考える
考えながらも、書かないのはつらいから、書いてしまう
断筆はできない

消費されるものとしての文学
剥製でない文学

それらはコンテンツとして金を生むだろう
しかしそれにいったい何の意味があるっていうんだ

でもそうなると、私たちは何も残すことができない
ブログに書かれた文章と同じ場所に立たなくてはならない

アーキテクトにどうコミットメントするか
結局のところ今の純文学の方向性はこう規定される

虚構の作家を捏造して物語を嘘とする作家
ケータイ小説を忠実に再現して批評的に徹する作家
ライトノベル出身という出自で既存のアーキテクトから脱出する作家

そんなにアーキテクトにコミットメントしたいのか
したいのである

自分の中にその感情があることは否定できない
それはただただ悲しいことだ

文学なんて、文字通り、ひとかけらもなくなってしまったのだ
そんな時代に私たちは生きている

ダヴィンチのように狡猾になるしかない
解釈されるのをひたすら待ち続けるコードを隠すしかない

それが現代のあらゆる作家が生き残る唯一の処世術である

でもそれは悲しいことだ
なぜみんなそんなにも無関心なのだろう

私は歩み寄る人間が好きだ
どんな存在にも歩み寄る人間が好きだ

一度歩み寄ってから背を向けることは難しい
だからこそ人は歩み寄ることを怖がるのだろう

仲間は楽しい
しかし楽しいだけではなんにもならない

ラストモダンだ
近代はもう、まさに、終わろうとしている

だから次の段階に移動するために、歩み寄らなければならない
ちょっと苦しくても、歩み寄らなければならない

その意識を常に持つことは、とてもとても疲れることだ
だから、ホームは、あっていい

自分の居場所はあっていい
それは最優先に確保すべきものだ

それは愛する人との平穏な家庭でもいいし
気の会う仲間との楽しい空間でもいい

そしてそれらを確保したら、疲れるために、外に出よう
今まで知らなかった人たちと歩み寄って話してみよう

自分が最も興味のない人種に話しかける瞬間
それはあなたの視点が無限に広がる第一歩だ

世界に余るところはない
だから世界全体を私のものとして手に入れよう

もともと私のものは存在しない
しかしだからこそ全て私のものになる可能性があるのだ

その可能性を追い求めよう
そうすればいつか本当にあらゆることが手に入るはずだ

それはきっと楽しいことだろう
たぶんどんなことよりも楽しいことだろう

実存とアーキテクチャ
その隙間を飛び越えよう

まずは、何か、しませんか?

PS.
最近比較的、新しいことをできる程度に時間が空いています
なんでもいいので誘ってください
まずは話しましょう

ekasake@gmail.comまでご連絡ください
どなたでもお待ちしております

ではでは

2009年12月7日月曜日

プロジェクト渋家

【渋家】
私が初代主宰をしていた企画で、本人は現代美術の作品という認識です。
現在は主宰を二代目に引き継ぎつつも主な活動拠点としております。

「社会のくず」とはつまり、音楽家、絵描き、売文家、ジゴロ、おかま、チンピラ、病人、老人、犯罪者、変態、死者、精神病者、外人、身障者、オカルティスト、漫画家、タレント、宇宙人、アルバイター、浮浪者、乞食、プロレスラー、売春婦、香具師、フーテン、etc・・・、要するにネクタイをしめて「企業の即戦力」とならないすべての「くず」どものことである。(中島らも「圧殺者」より引用)

いいじゃない、そんな人生。と私は思ったのでそういう人を集めてありとあらゆる活動をしていきたいと考えています。そこでまず最初に着手したのが溜まり場「渋家」の設置です。かれこれ二年が経ち、無事に代替わり&規模拡大も果たしました。これからは更なる飛躍に向けて邁進したいと思っております。

渋谷駅徒歩圏内にありますので興味を持たれた方はekasake@gmail.comまでご連絡ください。

終電なくなったときとか、無性に人に会いたくなったときとか、夜を徹して何かを語りたい時なんかに便利です。酒と音楽と好奇心を持ってお待ちしています。基本的にダベってるだけなので本当に気軽にお越しください。

2009年8月31日月曜日

これからは

新しいブログに投稿します。
こっちの記事も徐々に移していく予定。

ちなみにURLはhttp://psydem.blogspot.com/

2009年8月7日金曜日

真夜中のサイクリング

すっきりしないことをまっとうに歌いあげること。絵空事のようにさわやかな世界や、逆に演技にしか映らない悲観的で絶望的な世界に安住することなく、歌うこと。
岡村靖之 及び 真夜中のサイクリング について
國學院大學日本文化研究所 遠藤潤


真夜中のサイクリング 作詞作曲 岡村靖幸

ジャンパーの袖にしがみつけよ 命懸けの恋が世の中を救うよ
缶ジュース振るとときめくから 今も僕の胸の中の奥ずーっと

シャッターがガチャ×2と軋み泣いてる 駅裏の激しく新しいキスで
なんだって僕らはできるのなら 真夜中のサイクリングにでも行こうよ

万遍なく出来るだけ祈るよ 普段の僕には見つけられない心
あなたに見つめられて偉く張り切っちゃう どんな時にでも

5連速式の軽快さ誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今、広く高く深く 新しいスマイルで

今晩の月よどうか照らさないで 心の中が全部読まれちゃいそうさ
閉店セールで買い物するより 夜のデパートそっと屋上に行こうよ

どきどきするべきだぜ歴史上の史実の様に
そう、無難でずさんじゃせっかくの物語で
自ら脇役に志願してるようなもんじゃん 知らない間に

5連速式の軽快さ誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今、広く高く深く 新しいスタイルで

家族のサービスなんかで 無邪気にはしゃぐ子供の様に
叫んで泣いてたんだね でもBabyいいじゃん もう

5連速式の軽快さ誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今、広く高く深く 新しいスタイルで