保険と計画は紙一重である。
私たちは不確定な将来に対し大なり小なりみな計画を立てて生きる。
計画を立てて生きることは確かに有用である。
何かをしようと思ったとき、ある程度の計画を立てないと実行できないという事実は常に付きまとうからだ。
しかし計画を立てるということは可能性を削るということである。
計画のために必要な要素はあらかじめない物として取り扱われるからだ。
たとえば時間。
私たちは最初、1日24時間の時間を与えられる。
みな同じだ。
しかし時間に追い掛け回される人とそうでない人が居る。
時間に追い掛け回される人は計画的な人だ。
計画的な人にとって自分が何時に何をしているかは決められている。
逆に言えば無限の可能性からそれ以外の選択肢を削除している。
ここで一つ明言しよう。
私たちは可能性におびえている。
取りうる選択肢の多さにおびえている。
計画的であることは何を引き起こすのか?
予定は埋まりあなたの将来は可能性の代わりに安定を手に入れる。
しかし本質的に人は安定することはできない。
明日死んでしまう可能性を誰がゼロだと言い切れるだろう?
そしてここに不条理が生じる。
あなたは死ぬ可能性を考えて生命保険をかける。
死んでしまった後のことなんてあなた自身には関係がないのに。
もしかしたらあなたの愛する人には関係があるだろう。
だから愛は保険を求めるのだ。
しかしあなたの愛する人とあなた自身が他者であることは認識すべきだ。
私も時々は可能性の不安に押しつぶされそうになる。
成功者になる可能性と同じだけ失敗者になる可能性があるからだ。
しかしそのたびに私は可能性におびえないように自分を戒める。
私が将来に保険をかけて可能性を削除することは私に安定を与える代わりに成功も失敗も与えない。
成功も失敗もないということは幸福も不幸も薄くなるということだ。
私は人生に夢を見ている。
それは人生が濃いものであるはずだという希望だ。
私は薄い人生よりも濃い人生が好きなのだろう。
夢は不条理なものだ。
夢を持ち続ける限り不条理からは逃れられない。
不条理とは自分が予想していなかった可能性が突然現れることだ。
あらゆる幸福と不幸に不条理はつきまとう。
そしてそれは可能性が与え保険が切り捨てる最大の財産だ。
夢のない人間は居ない。
人には大なり小なり欲望があるからだ。
三大欲求の満たさない人間は生きていくことができない。
それは少なくとも欲望であり夢である。
どんなに保険によって切り捨てても不条理はあなたに付きまとう。
あなたは人間に生まれてしまったのだ。
それならばあなたは不条理から逃れることはできない。
しかし保険はあなたに人間を辞めることを求めるだろう。
それは保険の仕事が可能性を削除することだからに他ならない。
保険の不健全さはまさにここにある。
あえて強調するがここでいう保険は別に金銭における保険に限らない。
計画は容易に保険に変質する。
計画が明確な目的を持たず手段に変わったときがそれだ。
あなたは仕事で計画的にお金を稼ぎ計画的にお金を払う。
そうして生活を成り立たせている。
そうだとしよう。
このとき計画は明確な目的をもっているだろうか?
生活を成り立たせるのが目的なのだろうか?
それは「生活」しているのであって生きているのではない。
あなたの人生は「生活」に殺されてしまったのだ。
手段と目的を取り違えるとすぐにそんなことになる。
そうならないためにどうすればいいのか?
まずは考えることだ。
あなたの目的は何かと考えることだ。
無限の可能性の中からあなたが選び取ることだ。
それは夢を持つことに他ならない。
あなたは子供の頃から夢を失うように教育されてきた。
夢ではなく現実を見せつけることが今の教育の全てである。
それは現実を見せ付けて夢を失うことが人を計画的にするからだ。
幸福と不幸を小さくすることが計画的な社会に必要だからだ。
言うまでもなく教育は社会のためにあるのだ。
しかしあなたは社会のために存在しているのだろうか?
あなた自身よりも社会の方が大切なのだろうか?
そう思えるなら私は否定しない。
そういう人間も居るからだ。
しかしそういう人間はあまり多くはないと思う。
大抵の人は自分自身が世界で一番大切なはずだ。
少なくとも私はそうだ。
私は社会が計画的であることよりも私が幸せになりたいと思っている。
もう一度考えてみて欲しい。
自分自身のことや社会のことや世界のことを。
あなたに保険という不健全さを持つ魔法をかけさせるのは何なのか?
あなたの安定を求めているのはあなたではなく社会です。