2009年2月26日木曜日

晴耕雨読。

昔からあまりやりたいことがなかった。今でもあまりない。それでもとにかく何かをやり続けようとしてきた。どうやらそれが世間では普通みたいだからである。アイデンティティの問題からはとっくに自由になっていると思う。俺は俺であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。だから何かをやってそれにアイデンティファイするつもりはない。それでもなお何かを続けようと思う。意味の問題から開放されても、意味を作るという、意味のない行為が、どうなっていくのだろうかということに、興味ではなく、惰性の快感を得ているのではないかと思う。本来なら俺は晴耕雨読を志す人間だ。しかしそのように生まれつかなかった。環境的な現実と、精神的な理想の軋轢が、今の奇妙な状態を作り出した。そしてその奇妙さを楽しもうと言う前向きな姿勢を持とうとした成れの果てであるように思う。軋轢に気づくのが遅かったのかもしれない。気づくのが早ければもっと極端な方向になっていたのだろうと思う。しかし極端な方向に行くほど、軋轢を感じられる敏感さを持ち合わせていなかったのだ。中庸を延々に走り抜けた結果最後に会ったのはやはり中庸だった。何にも妥協しなかった結果、全てを妥協する事に行き着いた。晴耕雨読。晴れの日は耕し、雨の日は読むのだ。俺は全てを妥協する。しかしそれに関してだけは妥協しないつもりだ。

2009年2月23日月曜日

板の上に立つ。

表現難民互助会というところに出てきた。漫才をした。一緒に出た人が全部お膳立てしてくれたので初めての漫才にしては良かったと思う。良い経験をさせてもらった。よく舞台上でパフォーマンスをする人たちが「板の上に立つ」という表現をするが、その感覚を味わえたのが一番の収穫だった。本番前は緊張して自分でも何をやってるんだかわからなくなる。というかあまり覚えていない。気持ち悪いのにココアを飲んで腹が膨れて本番直前にトイレに行きたくなるとかいう、意識が生理現象とかみ合わない感覚。それが舞台に出た瞬間にぱーっと消え去ってゆく。これは面白い。そして終わった後のあのカタルシスと空腹具合といったらもう!あれが「板の上に立ちたい」ともう一度させる麻薬なのだろうと思った。そして俺はそれが好きみたいだ。しかし昔から俺は何にもはまることなく生きてきた。プラモデル、ラジコン、テレビ、インターネット、小説、将棋、オセロ、チェス、路上パフォーマンス、音楽、酒、煙草、睡眠薬、ギャンブル、そして文章をかくというこのブログでさえも義務感がゼロかといわれればそんなことはない。いままでどんなことをしても、どんなものを見つけても、何に対しても、愛着がわかないまま生きてきた。瞬間瞬間、それらを愛することはある。でもその瞬間と瞬間をつなぐために義務感が生まれ、それに耐えられなくなって、やがては離れてしまう。どうすればいいのだろう。このまま一生、つまらない人生を過ごすのだろうか。やけっぱちになるのは飽きた、しかしやけにならずに居るのにはとっくの昔に飽きている。もはや生きることすら義務感を覚える。でも何かをやっている、その何かはなんでもいい、何かをやっている時だけ、義務感を忘れることが出来る。こうしていま文章を書いている間だけ、義務感を忘れることが出来る。何かどうしても読みたい本を読んでいる間だけ、義務感を忘れることが出来る、誰かと話している間だけ、義務感を忘れることが出来る。義務感、義務感、義務感、永遠に続く義務感。もううんざりだ。しかし逃げる場所は無い。唯一あるとすれば、何かをしたいときにすることだ。そして、しなければならないことをしたくないときに強要されそうになったとき、言い訳を残して逃げる。それが俺の生き方かもしれない。何も出来ない。それでは何も出来ない。そういわれる。そして自分でもそう思う。だから今は耐えるべき義務感と、耐えなくても良い義務感に線引きをしている。どうせどれにも義務感を感じるならば、その中で感じるべきものと感じないでよいものをせめて区切っておこう。それが今現在の自分の処世術である。閑話休題、板の上に立つことに、一つの義務感があった。それは乗ってしまった義務感であり、それをやらずに何をやる?という義務感であり、それによって世界が開けるための義務感であった。結果、それによって俺はたくさんの幸せを手に入れた。俺は本当に良かったと思っている。できることならまた出たいと思うが、そういう機会に恵まれるかは分からない。その場その場で最善を尽くすだけである。とにかく今は映画を撮ること、小説を書くこと、そして様々なものに触れること、それらを少しずつ進めていきたい。それが俺にできることなのだ。そんなことを考えている。

2009年2月21日土曜日

自作引用3

そういや転載してなかったなと思って。
順番に書いている日記があるので、それを週遅れで。
ちなみに元はココ→http://blog.goo.ne.jp/pcd_diary/

自分のブログもそっちのけでこっちに投稿するワタシ×PCD

ハルヤがいっぱい書いててなんぢゃこりゃと思いつつ、どうやらハルヤの独断と偏見で二日目に任命されたらしいので、書こうかなと「新しい記事」を開いた。
で、日記ってことで今日何かしたかと記憶をたどってみたが、驚くほど何もしていないことに気づいて愕然とする。仕事先の雰囲気を細かく描写しても特に面白くないだろうし、かといって起きてからしたことといえば勤め先での業務だけなのだからどうしようもない。まあこれが日々ってもんよね。なんてニヒリスティックに微笑むようなよく言えばエッセイ調、悪く言えば無内容な記事を仕立てあげてもいいのだが、なんだか最近そんな記事にも食傷気味で、自分のブログすら更新が滞っているので、思い切って自己紹介的な内容にしようかと思う。
小生昭和六十二年生まれの男子。精神、肉体ともにいたって健康であります。前科は一犯。軽犯罪法違反にて書類送検。思想犯的処遇で面倒な取調べを受け、以後反省して、二度と悪さをしても警察に捕まってなるものかと心に誓いました。趣味は読書。音楽鑑賞。インターネットを少々。ジャンプを見ると必ず「こち亀」を読んでしまう生粋の日本人であります。祖先は赤穂浪士として主君の無念を晴らさんと散った孝行者ですが、小生はといえば当代切っての親不孝者、目下素浪人街道を驀進しております。今月に入りまして食欲、性欲、睡眠欲、いずれも欲求不満を覚え、今にも軽犯罪法を再犯しそうになりながらも日々をやり過ごしております。髪は今まで一度たりとも染めたことがありません。恥ずかしながら脛毛は剃ったことがあります。濃くなって酷く後悔しましたが、当時の私には頭部以外の毛というものが許せない信念があったのです。葬式に宇宙葬を選択できるよう、日々貯金をしております。しかし時々、誘惑に負けてチョコレートを買ってしまいます。飲む打つ買うをモットーにしておりますが、最近は忙しさを言い訳にどれも興じておりません。風呂には二日に一度は入ろうと努力しています。歯を磨くときにえづく癖があります。新たな性感帯を求めて官能小説を読みふけり、その結果としていつしか官能小説家を夢見るようになりました。風が強い日、雨が降る日は基本的に布団から動かずにぢっとしております。生まれ変わったら裕福な家庭の飼い猫になろうと猫缶を食し、炬燵の中で眠る訓練をしております。中学生の頃、オセロというゲームを惰性のように続けていたところ全国二位になっていました。高校生の頃の記憶はほとんどありません。ただ、みんなでいたはずがいつの間にかぼっちになっているという白昼夢を何度も見たことだけは鮮明に覚えております。高校を卒業した後は、詐欺師、博打屋、活動家など定職を決めずにおり、渋谷をうろついていたら毎朝同じ時間、同じ場所にサンドイッチが置いてあることに気づき、それを食べて生きながらえていた時期もあります。その後、公園、大学、相撲部屋、知人宅、図書館、駅、漫画喫茶、社屋などを転々として友人数名とルームシェアをすることになり、現在に至ります。左翼でも右翼でも信者でもありませんが、何かに酔っていつもくだを巻いています。不美人、不真面目、不誠実と三拍子そろっていますが、あくまでも前向きに生きております。そんなこんなで、これからもよろしくお願いいたします。であであ。

2009年2月20日金曜日

最近狙ってること。

映画撮ろうとしてるけどなかなか金がない。稼がないといけない。働け俺。とにかく現金を手に入れろ。時間を売れ。覚悟を決めろ。小説書けるような気がしてる。海外文学も徐々に体に落ちてきて、ほとんど咀嚼できるようになってきた。いいぞいいぞ。あとは書く時間を探せ。考えすぎるな。演劇に出られるかもしれない。これはどれだけ余裕を作り出せるかにかかってる。迷惑かけないようにだけがんばろうぜ。大学に行けそうだ。学割とか学生バイトとか利用できるものは片っ端から利用しろ。特権階級であることを悪用しろ。最初のコストで最大のリターンを常にねらえ。いまから数年間で何をどれだけ手に入れるかだ。常に社会という怪物の片足を狙わなくてはならない。食らいつけ。知名度を上げろ、技術を手に入れろ、視界を広げろ。とにかく自覚的に行動することだ。自己批判は鬱にならなければいくらやってもやりすぎということはない。客観と主観と天使の視点でもって世界を切り開け。常に冷静にバランスを確かめろ。足を踏み外したら死ぬと思え。死んだら二度と生き返らない。ぎりぎりのバランスにしがみつけ。身体の力を抜け。誰かに触られているうちが華だぞ。狙ってること…狙ってること…そうだ、一度に全部をねらえ。でも狙うものには勝算を持て。安心するな。常に不安に追いかけられていればいい。そうすれば気がついた時には安心しか残っていない。生き残れ。生き残れ。生き残れ。自分が一番馬鹿だということを忘れるな。俺はすぐにそれを忘れる。忘れるな。自分が必要ないことを忘れるな。だからこそ必要になりえるのだということを忘れるな。あとは、今年いっぱい続けてみろや、ブログぐらい。最近更新遅いぞ、俺。

2009年2月17日火曜日

考えすぎるな。

最近、映画を見ることが多い。もちろん毎日映画館にいけるほどのお金はないから、無料の上映会に行ったりDVDをなるべく安価で借りてきてみることが大半だ。そういうときに一緒に見ている人の反応を見ていると本当にうらやましくなる。俺は、感動的なシーンでジーンとしたり、面白いシーンで面白っと思っても、ついつい考えてしまう。素直に感情を表に出す前に、その感情が「正しい」のか考えてしまうのだ。これは本当に悪癖だと思う。正しいものなんて存在しないといいながら、いつも自分が正しいことをしているかにおびえている。自分が間違ったことをしていないかと振り返らないと不安で仕方がない。逆に、その不安さえクリアーしてしまえばあとは本当にどうでもよくなる。自分が正しいと思ったら猪突猛進、考えることが「先に進む」ということに完全にシフトしてしまうのだ。ああこわい。今までの人生に後悔はない、と俺は断言できる。当たり前の話で、正しいと思ったことを猪突猛進でやってきたのだからそこに後悔や失敗があるはずもない。もちろん、社会的にみて失敗していることは多々存在する。しかしそれらは自分の中では成功に置き換えられてしまっているから、見えない。こういうことが異常に多い。気をつけなければならないと思う。しかしなかなか直るものでもない。だから俺は、常に俺に文句を言う人に近くに居てもらうことが必要だと考えている。そうすれば俺は言われたことをひとつひとつ吟味して、考えることができるのだ。っとまた考えてしまった。とにかく考えすぎる。考えている間は人の声なんか耳に入ってこないし、入ってきても頭の中に録音しておいて後で再生するからその場で返答できない。これは本当に困る。っていうか、なんだかだらだら書く癖がついてしまっている気がするなぁ。それも困る。思考の垂れ流しみたいなもんだ。考えないようにするにはどうすればいいのだろう。そのひとつの解決策として、気の置けない人の前では恥を恐れずに本心を出してみることをやってみようと思う。とはいえそういう人というのは容易に増えるものではないから難しい。考えないようにしようと思う。感じたままに感じたことを言えばいいのだ。しかしそれは心の中をのぞかれているようでひどく怖い。っとそんなことを考えてしまうからいけないのだ。どうしよう。なにがなんだかよくわからなくなってきちゃったな。最近、そういうことが多い。

2009年2月15日日曜日

比較と相対。

文章だったらブログ、映像だったらホームビデオ、ダンスだったらパラパラ、とかなんでもいいんだけど、敷居の低いやりやすさで圧倒的に大衆を巻き込めるものが存在する。それらを語るときに使う言葉が相対であるように思う。行きすぎた相対主義は良くないなんて言説がよくあるが、その「いきすぎ」という言葉はあくまで主観にすぎない。どこまでいっても主観である言語で評価をするということは客観性を欠いた行為である。それはなんにためにもならない。主観はひたすら集積すれば客観に近づくが、それには膨大なコストがかかる。それを一人が言葉で発したとしても、それは飲み屋のたわごととなんら変わらない。それではそうならないためにはどうすればいいのか。その一つの解決法が比較ではないかと思う。比べる対象との相違点を明確にすれば、少なくともそれがどのような形状を持っているかを一断面にしろ切り取ることができる。もちろんこの場合も切り取る切り口自体は主観的になるのだが、切り取られた部分は客観性を保持しているので、その部分だけは評価することができる。だから教養的、学究的な人たちは、相対ではなく比較になるのではないかと思う。そしてこれはとても便利である。相対主義がはびこって共通前提が崩壊するのなら、それに対応する唯一ともいえる方法は比較主義に自分を規定して、そこからはみ出ないように評価し続けることである。

2009年2月13日金曜日

いやなかんじ。

元気が無い。そんなときもある。でも、元気が無いのにもポジティブとネガティブが存在すると思う。ポジティブな元気が無い状態は、ある種の爽快感とか、にやりとする雰囲気があって、スポーツの後ではないんだけど、なんというか、悪くない状態だ。ダウナーな音楽とか、暗い小説とかに共通する、そこはかとない面白さみたいなものがそこにはある。誤解を恐れて補足するならば、別にこれはダウナー以外の要素で悪くなくなっているわけではない。スタイリッシュさとかそういったものとは無縁であっても、そういったものは存在する。一方で、ネガティブな元気が無い状態は、どこか切れの悪い、鈍ったものが体中を駆け巡っている。漠然とした不安や、じっとりとした汗の感覚に近い。いやなかんじ。文章を書いていてもなんだかうまくないというか、もはやうまくいくことが想定できない。何もない爽快感はそこにはなく、何かがこびりついているような嫌悪感が支配する。それが嫌で、嫌で、仕方がないのだけれど、解決の糸口すら見つからない。あるいは、解決するには何か大きくて嫌な障害を乗り越えなければならない。気がする。気の持ちようと断じるには少し大きすぎる問題。時々、そういった感覚に襲われる。逃げ出したくなる。あるいは今すぐに問題の解決をはかりたくなる。しかもそういうときに限って、あっけらかんとした解決策が目の前にいくつも転がったりしていて、慎重にそれらを遠くに押しやらなければならない。気がする。物事はほとんど気の持ちようで視点を変えられるものだが、それすらもなかなかうまくいかない。そんなかんじ。いやなかんじだ。だからといって誰かに罪があるわけじゃない。そういう状況が生まれたのは誰かの罪じゃない。強いて責めるべきは自分の心の弱さかもしれないが、弱い心が自分の弱い心を責められるほど強いはずがない。言葉遊びに堕しているように見えるかもしれないが、今の気持ちを表現するならそんな風になる。ああ、いやなかんじだ。

覚悟を決めろ。

決断しなくちゃならない。映画トレインスポッティングの冒頭が俺は好きだ。「人生を選べ。仕事を選べ。キャリアを選べ。家族を選べ。大型テレビを選べ。洗濯機を選べ。車を選べ。CDプレーヤーを選べ・・・」成熟した人たちは決断を急がない。究極的に言えば、人生において決断は必要ないといえるからだ。決断することなしに生きていくことが安定と上昇への王道だということはもはや様々な角度から明らかである。決断の先に待っていることは限りない不安定と個人的主観に過ぎない。しかしそれでもなお、決断することを俺はオススメする。なぜなら俺は、俺の主観においてそちらの方が楽しいと決断したからだ。安定と上昇は確かに魅力的である。その二つの要素さえ持ち合わせていれば、あなたはいつまでも不幸にならずに居ることができる。アキレスと亀のように追いつけぬ幸せを永遠に夢見ながら、不幸を感じずに生きていくことが出来るのだ。魅力的でないはずがない。しかし、それでも俺は、いわば時間軸を強引に導入し、不幸と幸福を往還する、波乱に満ちた、そんな人生にあこがれている。これはもしかしたらどこかが狂っているのかもしれない。そう言われて返す言葉は俺には存在しない。黙りこくってただただ「正しい」お説教を聞くまでである。人生はどこまでいっても不確定なノイズが入り込むものだ。俺たちは理想気体だけで呼吸することは出来ない。絶対にそこには意図せざるものが介入するのだ。それならばそれを好意的に受け入れよう。それを愛そう。それこそが人間であり、それこそが本当に生きることではないのか。俺はどこまでもそう思うのだ。もちろん若いという人も居るだろう。それならそれで結構である。若さは時にポジティブな変革をもたらすのだ。それが例え万が一であっても、信じることは楽しいではないか。

2009年2月9日月曜日

注目引用1



境界線上で踊る人というのはいつの時代にも存在する。最近俺が注目している境界線のひとつがヤンキー(B系)とオタク(A系)である。教養、共通前提なき動物は、極論すればこの二つに分類できるといっても過言ではない。そしてその二つの境界線上で踊る人たちが居る。それはとても面白いことだ。新しいことが発信されている姿をまざまざと見せつけられているような気がして、俺もがんばらなくてはと思う。

2009年2月8日日曜日

名作引用7

全ての言葉はさよなら Flipper's Guitar
雪が溶けて 僕たちは春を知る 同じことただ繰り返す
喋る笑う 恋をする僕たちは さよならする
カメラの中でほら 夢のような 物語が始まる
分かりあえやしない ってことだけを 分かりあうのさ
暗い夜に 痛いほど目を閉じた 僕らでも今は平気さ
得意技の キザな言葉ですぐに 逃げ出すのさ
ごらんよ幾つもの 噂話 この世界に広がる
思いっきり僕たちは キスを投げて
さよならする さよならする さよならをする

これは別に言い訳ではないが、俺は何も物悲しいリリシズムだけが表現の全てであるとは言わない。エロ・グロ・ナンセンスとかそういうものが好きで、嗜好がそちらに傾きがちで、結果として表現したいものもそちらに偏ってはいるが、それ以外にも好きなものはたくさんある。誤解を恐れず言うならば、懐メロとか大好きだ。それがたとえ以前くさした『演歌』の代表であるにせよ、心からそれに移入することはある。もちろんFlipper's Guitarが『演歌』であるとは微塵も思わないが、しかしやはり物悲しいリリシズムとかそういったものとは少し距離があるだろう。それにしても完成度が高い。この作品は小沢健二が作詞・作曲ともにやっていたはずだが、とにかく彼の作品は観念的な完成度が高い。インテリ特有の、よく言えば上手い、悪く言えば鼻につく、そういったものが多い。Flipper's Guitarは1枚目と3枚目のアルバムで挑発し、2枚目のアルバムで懐柔しているイメージがあるのだが、その2枚目のアルバムのラストを飾るこの曲は、それの極みといったところである。

考えすぎるな。

自分を分析しすぎることは、自分のことでエネルギーを使うのは、やりすぎるとよくない。元気がなくなって、言葉もなにもなくなってしまう。それは危ないことだ。こうして書いていても、なかなか書くことができない。それは危ないことだ。どうしてこんなことになってしまったのかわからない日もある。そしてそれがわかったところでどうにもならないのだから、今は眠れ。眠らなくてはならない。それに気づいていても実行できない。それは危ないことだ。呼吸をしなければならない。肩で息をするのではなく、肚で息をしなければならない。そんな呼吸不全では何をしてもすぐに息切れするぞ。やることはたくさんあるかもしれない。でも今は何も考えるな。考えすぎるな。無駄なトラフィックを一度掃除しろ。それは戦争かもしれない。今まで溜まってきたものとの戦争かもしれない。でもそれは必要なことだ。必要のないことは存在しない。何かしらに必要なのにそれが見えていないだけなのだ。大きな変化が起こるかもしれない。ラディカルでなければそれは賞賛されるべきことだ。ラディカルで大きな変革は、浮ついた状況を生み出して空転することしかないが、ラディカルでない大きな変化はその重さで地に足をつけて転がってゆける。それならば大丈夫だ。今はとにかく、冷静になることだ。そしてよく眠ることだ。血湧き肉踊るのはもちろんすばらしい状態だが、それが続くと結果的に湧く血も、踊る肉も、衰えてゆくのだ。頭の中に流れている膨大なデータを吐き出せば、とりあえず落ち着くことはできるだろう。そして空っぽの中にまた詰め込めば良い。必要なことはこれからそろえてゆけば良い。何一つ残らなくても不安に思うことはない。それはゼロに戻っただけだからだ。マイナスになった訳ではない。心からお礼を言えば、大抵のことには決着がつくものだ。そしてそれが終わりというものだ。ありがとう。

人だけで生きてはいけない。

よく「人は一人では生きていけない」なんてことを言ったりするけど、逆に一人じゃなければそれだけで生きていけるかといったらそうでもないのかもしれない。あるいは一人で生きるのと同じぐらい難しいのかもしれない。俺は人が好きだから、人に対してポジティブな感情を持っている。ただし俺と出会った人の中でも俺がコミットしない人が居る。俺は双方にメリットが無いときは基本的にあまりコミットしない。俺と出会ったことでその人が不幸になる、その人と出会ったことで俺が不幸になる、あるいはその両方。という場合にはさまざまな方法を駆使してコミットする可能性をつぶしていく。それは俺が人を嫌いになりたくないからでもある。俺が嫌われる分にはかまわない。俺は理不尽が嫌いではないからだ。でも俺に嫌われるのは可愛そうであると思う。俺によって理不尽を強要されるのは甚だ不快であろうと思うからだ。もちろん、コミットする可能性をつぶされているときも、人は理不尽を強要されていると感じるのかもしれない。それだったら俺の方法は意味がないのかもしれない。しかし、俺は少なくともこれまでそうやって生きてきたし、これからもそうやっていくつもりだ。そうやって人とコミットして立ち位置を確認してきた俺だが、それに心を奪われすぎてその他いろいろなものがルーズになってしまったらしい。人は大切にするが、お金と時間と物を大切にしないと言われたので、最近はそれに気をつけようと思っている。すると人とコミットするために割く部分が減ってくる。しかしその分、なんだかバランスは取れている気がする。こうして変わっていくのだろう。人を好きであることと人を利用することが共存するのは難しい。しかし不可能ではない。そう信じてお金と時間と物を大切にするよう心がけていきたい。

2009年2月6日金曜日

誇張する重さ。

ミラン・クンデラに影響されてではないけれど、言葉の重さとかそういうものが最近やたらと気にかかる。発する言葉、書く言葉、なんでもいいのだが、全体的に俺は重い言葉を使いたがる傾向にある。重い言葉は効いているうちは威力を発揮するのだが、反動が大きい。その反動がいつくるかわからないから、不安要素になる。それからパンチドランカーみたいに反動になれてしまうのも怖い。というわけでもう少し言葉を軽くしていかないとと思っています。パンチドランカーはある意味無敵なのだが、無敵だと思って突進してたら実は地味にダメージがあって死んでしまうなんてことになったら目も当てられない。それはちょっと嫌だ。重い言葉は死んだ後にまで影響を与えられるぐらいまでは使わない方がいいのではないかとすら思う。すべての言葉はもちろん、同じ感覚で使うことはできない。そしてその感覚は人によって様々である。だから自分の意図がきちんと伝わらないことが往々にして存在する。それにもっと自覚的にならなければならない。俺の価値観というのはあまり世間様と相容れない訳だから、自覚しなければならない。もっと俺よりも重い言葉を持った人と話をするべきだ。そうすれば俺の重さなんてたかが知れていることが一瞬にして理解できるだろう。そういう状況に自分を追い込まなければならない。このままでは誇張し続けて破裂するのは目に見えている。破裂したらあとは野となれ山となれではないけれど、よろしくない。とにかく自己批判だけでは限界があることは重々承知である。だからこそ批判的な他者に相対しなければならないのだ。そのための教育なのだ。俺は教育を受けなければならない。それは最近よく感じている。その方向に動かなければならないと思う。しかしそれはとても難しいことだ。哲学のことわざに「哲学を学ぶ最も良い方法は良い師を見つけることである」というものがあるが、それが今まさにひしひしと感じられる。教えることは難しい。教えられることは簡単だが、教えてもらう人を見つけるのは教えること以上に難しい。こういう時に人生の短さを感じる。

2009年2月5日木曜日

考えなくていいのなら。

感性という言葉があるが、現代社会において感性は考えることから育つ面が非常に多いと思う。異常な感性なんていったりするが、そう易々とそんなものは手に入らない。異常な経験と異常な知識が異常な感性を育むのだ。で、異常な経験つったって、戦争も経験してない、革命も経験してない、こんな平和でのんべんだらりとした時代に、異常な経験なんてよほどのことがないと手に入らない。竹熊健太郎いわく「戦争を経験していない世代には戦争を経験している世代へのコンプレックスが確かに存在する」というわけで、俺は自分の異常な経験に基づいて作品を作るなんていってる奴はとっととタイムマシンでも作ってくれと言いたい。いまどき手を変え品を変え場所を変えたってよほどのことがない限り異常な経験など転がっていないのだ。そうなってくると異常な感性を育てるには異常な知識を放り込む以外に選択肢がないことになる。あなたがどんなに経験主義者であったとしてもこれは避けられない。とにかく貪欲に知識を取り込み続けた奴が異常な感性を手に入れていくのだ。そしてこの異常な感性こそが作家性であり、価値のあるものを作るための最も根源的な要素である。だいたい、ハンディカムで誰でも映像をとる時代である。量販店にデジタル一眼が売っている時代である。ライブハウスがお手軽な値段で借りれる時代である。あげくにデザインフェスタギャラリーやらGEISAIやら至れり尽くせりである。表現なんて余っている。いくらやったって異常な感性、特筆すべき異常さを持たないような作品なんか無駄である。無駄なものはゴミである。データだからゴミは出ないとか言ってもらっちゃ困る。ネットワーク上を流れるトラフィックはとめどもなく増大し、いろいろなところでゴミが迷惑をかけているではないか。あげくの果てに「自分の好きなことをやってるだけ、誰にも迷惑なんかかけてない」はっきり言おう。そんな奴が生きているだけで迷惑である。普通に働いてくれた方が経済的に価値があって、きちんとした人類のリソースになり、おまけに地球にも優しいのである。無駄な活動なんかやめてくれ。とはいえ自分自身がその範囲に居るのだから困ったものである。正論を振りかざして今日も情報を垂れ流すのである。やるせないこの気持ちから一日でも早く抜け出せるように願うばかりだ。

2009年2月4日水曜日

日付が変わる前に。

だんだんと更新の頻度が落ちてきて、なかなかの先行き不安ですが、裏返せば忙しい毎日だから書けないということであって、これがほんとの「便りがないのは元気な証拠」って奴ですね。しかし元気とはいえ肉体的、精神的の両方面で比較的せっぱつまっているようで、死んだように眠ったり、完徹なのに元気だったり、異常にイライラしたり、独り言が増えたり、被害妄想や加害妄想、自意識過剰や自己批判、果ては人間不信まで、なんだか現代人の見本みたいになってしまって、ふっと気が抜けたときなんかに自嘲したりしています。ブログに書くのが何よりの証拠だと思ったりもしますね。やたらとダブル、トリプルブッキングが多いのはスケジュール管理が下手だからというのもあるのでしょうが、キャパオーバーというのもあるのかな、くやしいけど。毎年この時期になるとなぜかかたっぱしからコミットしてキャパオーバーになってる気がします。ダメですね。気をつけないと。んで、何を書こうと思った訳でもないんですよ。とにかくガーッとね、書き込んでストレス解消したかったのかもしれません。思いつくままにキーを叩くのは爽快感があるんです。とりあえず気が晴れるまで伸び伸びできればなぁ、というのをベタに感じてしまう今日この頃です。

2009年2月2日月曜日

やおら書く。

毎日なにかしらのことを書いていれば書くことが無くなってくるのは当たり前なのだが、その事実を許すことができないところに俺の完璧主義が現れているのだろう。「何もしない完璧主義者」というスタンスが以前から問題で、改善したいと常々考えているのだが、どうにもなかなかうまくいかない。打破の一環としてのブログなのだが、多少の改善は見えたものの本質的にその解消にはいたっていない。だからこうして時々、何も準備せずに書くことにしている。誤解のないように言い訳すると、準備といってもいつもは思いついたときに書くものを、思いついてもいないのに書き始めるということである。ようするにでっちあげ、虚飾の域を出ない駄文なのだが、それでもこうしてすらりすらりと出てくることを考えると、もはや俺は虚飾だけで生きているのではないかと不安にならないでもない。高橋源一郎いわく「現実は存在しない、言葉だけが存在する」というものがあり、虚飾で生きるということの極北であり、素晴らしいとも思うが、それはそれで剥き出しのラディカルさを感じてすこしたじろぐ。それにしてもラディカルさを感じてたじろぐなんて俺も中庸を求め、妥協するようになったものだなどとぼやいてしまう。その人間臭さ、さえも最近は肯定的にとらえてしまう。自己肯定が少し行きすぎの感があるので、謙虚さを失わずにゆかねばならない。ところで今日と明日の二日間にかけて、午後二時~九時まで、多摩美術大学上野毛キャンパスでグループ展をすることになった。時間がある人は見にきていただければ嬉しく思うが、平日ということもあってなかなか難しいだろう。でも誰か来ないかと期待して待っている。昔から変わらぬのはこの寂しい期待感だけらしい。

2009年2月1日日曜日

こわい。

どこかの方言でしんどいことを「こわかった」と表現するところがあったかと思うが、これはなかなか言いえて妙であると思う。恐怖というのはくるぞくるぞと思っているとき興奮を得て、きてしまった後には奇妙なノスタルジアが残るものだ。そしてしんどかった体験もやがては美化され人に語れるまでになるのが常である。その共通の要素がこれらの言葉を同列に並べる感覚的根拠になったのであろう。俺は先月の一ヶ月間、なかなかしんどかったと思う。様々なことが怒涛のようにやってきたし、それらをなぎ倒すかのようにつないでいかなければならない感覚は、面白い要素を超えてしんどさに片足を踏み込んでいたのではないかと思う。最後のほうは精神的な息切れも覚えた。しかしそれらはやはり今となってみるとある種のノスタルジアを俺に感じさせるのだ。もちろん日々は続いていく。少なくともこのブログでさえも今年いっぱいは続けるつもりなのでまだほんの一割弱の日々が過ぎ去っただけである。しかし、ただそれだけのことでもなお、俺の心にはノスタルジアが芽生えているのだ。これは別な見方をすれば恐怖である。風のように過ぎ去っていく日々をどうにか受け止めようともがいたとしても、それは結局のところあたたかいノスタルジアに抱きとめられてしまう。この感覚は疲れた時にどうしようもなく誰かに抱きとめられたいと思う気持ちと、それを許さない現実やそこから逃れようとする心の強さのようなものの葛藤に似ている。俺は日々、邁進していかなければならない。自分にとってより良い人生を謳歌するためにはまだまだ何もかもが足りないのだ。しかしそれらの気持ちに対してブレーキをかけるノスタルジアは、良くも悪くも俺の心を癒してくれる。中学生になったばかりのころから「青春」というものに違和感を覚え、それをひとつの時代と規定することを軽蔑し、ノスタルジアは唾棄すべきものであると断言して憚らなかった自分を思い出すと、それに抱きとめられたいという感覚を、葛藤の一端にせよ持ってしまった今の自分には、やはり老いと罪悪感を感じる。こうしてやがては枯れゆくのだろう。願わくば、やがてくるその時が訪れる前に、枯れても立ち続ける太い幹が育ちますように。

文化系男子4