2009年2月23日月曜日

板の上に立つ。

表現難民互助会というところに出てきた。漫才をした。一緒に出た人が全部お膳立てしてくれたので初めての漫才にしては良かったと思う。良い経験をさせてもらった。よく舞台上でパフォーマンスをする人たちが「板の上に立つ」という表現をするが、その感覚を味わえたのが一番の収穫だった。本番前は緊張して自分でも何をやってるんだかわからなくなる。というかあまり覚えていない。気持ち悪いのにココアを飲んで腹が膨れて本番直前にトイレに行きたくなるとかいう、意識が生理現象とかみ合わない感覚。それが舞台に出た瞬間にぱーっと消え去ってゆく。これは面白い。そして終わった後のあのカタルシスと空腹具合といったらもう!あれが「板の上に立ちたい」ともう一度させる麻薬なのだろうと思った。そして俺はそれが好きみたいだ。しかし昔から俺は何にもはまることなく生きてきた。プラモデル、ラジコン、テレビ、インターネット、小説、将棋、オセロ、チェス、路上パフォーマンス、音楽、酒、煙草、睡眠薬、ギャンブル、そして文章をかくというこのブログでさえも義務感がゼロかといわれればそんなことはない。いままでどんなことをしても、どんなものを見つけても、何に対しても、愛着がわかないまま生きてきた。瞬間瞬間、それらを愛することはある。でもその瞬間と瞬間をつなぐために義務感が生まれ、それに耐えられなくなって、やがては離れてしまう。どうすればいいのだろう。このまま一生、つまらない人生を過ごすのだろうか。やけっぱちになるのは飽きた、しかしやけにならずに居るのにはとっくの昔に飽きている。もはや生きることすら義務感を覚える。でも何かをやっている、その何かはなんでもいい、何かをやっている時だけ、義務感を忘れることが出来る。こうしていま文章を書いている間だけ、義務感を忘れることが出来る。何かどうしても読みたい本を読んでいる間だけ、義務感を忘れることが出来る、誰かと話している間だけ、義務感を忘れることが出来る。義務感、義務感、義務感、永遠に続く義務感。もううんざりだ。しかし逃げる場所は無い。唯一あるとすれば、何かをしたいときにすることだ。そして、しなければならないことをしたくないときに強要されそうになったとき、言い訳を残して逃げる。それが俺の生き方かもしれない。何も出来ない。それでは何も出来ない。そういわれる。そして自分でもそう思う。だから今は耐えるべき義務感と、耐えなくても良い義務感に線引きをしている。どうせどれにも義務感を感じるならば、その中で感じるべきものと感じないでよいものをせめて区切っておこう。それが今現在の自分の処世術である。閑話休題、板の上に立つことに、一つの義務感があった。それは乗ってしまった義務感であり、それをやらずに何をやる?という義務感であり、それによって世界が開けるための義務感であった。結果、それによって俺はたくさんの幸せを手に入れた。俺は本当に良かったと思っている。できることならまた出たいと思うが、そういう機会に恵まれるかは分からない。その場その場で最善を尽くすだけである。とにかく今は映画を撮ること、小説を書くこと、そして様々なものに触れること、それらを少しずつ進めていきたい。それが俺にできることなのだ。そんなことを考えている。

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