2009年2月6日金曜日

誇張する重さ。

ミラン・クンデラに影響されてではないけれど、言葉の重さとかそういうものが最近やたらと気にかかる。発する言葉、書く言葉、なんでもいいのだが、全体的に俺は重い言葉を使いたがる傾向にある。重い言葉は効いているうちは威力を発揮するのだが、反動が大きい。その反動がいつくるかわからないから、不安要素になる。それからパンチドランカーみたいに反動になれてしまうのも怖い。というわけでもう少し言葉を軽くしていかないとと思っています。パンチドランカーはある意味無敵なのだが、無敵だと思って突進してたら実は地味にダメージがあって死んでしまうなんてことになったら目も当てられない。それはちょっと嫌だ。重い言葉は死んだ後にまで影響を与えられるぐらいまでは使わない方がいいのではないかとすら思う。すべての言葉はもちろん、同じ感覚で使うことはできない。そしてその感覚は人によって様々である。だから自分の意図がきちんと伝わらないことが往々にして存在する。それにもっと自覚的にならなければならない。俺の価値観というのはあまり世間様と相容れない訳だから、自覚しなければならない。もっと俺よりも重い言葉を持った人と話をするべきだ。そうすれば俺の重さなんてたかが知れていることが一瞬にして理解できるだろう。そういう状況に自分を追い込まなければならない。このままでは誇張し続けて破裂するのは目に見えている。破裂したらあとは野となれ山となれではないけれど、よろしくない。とにかく自己批判だけでは限界があることは重々承知である。だからこそ批判的な他者に相対しなければならないのだ。そのための教育なのだ。俺は教育を受けなければならない。それは最近よく感じている。その方向に動かなければならないと思う。しかしそれはとても難しいことだ。哲学のことわざに「哲学を学ぶ最も良い方法は良い師を見つけることである」というものがあるが、それが今まさにひしひしと感じられる。教えることは難しい。教えられることは簡単だが、教えてもらう人を見つけるのは教えること以上に難しい。こういう時に人生の短さを感じる。

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