2009年2月1日日曜日

こわい。

どこかの方言でしんどいことを「こわかった」と表現するところがあったかと思うが、これはなかなか言いえて妙であると思う。恐怖というのはくるぞくるぞと思っているとき興奮を得て、きてしまった後には奇妙なノスタルジアが残るものだ。そしてしんどかった体験もやがては美化され人に語れるまでになるのが常である。その共通の要素がこれらの言葉を同列に並べる感覚的根拠になったのであろう。俺は先月の一ヶ月間、なかなかしんどかったと思う。様々なことが怒涛のようにやってきたし、それらをなぎ倒すかのようにつないでいかなければならない感覚は、面白い要素を超えてしんどさに片足を踏み込んでいたのではないかと思う。最後のほうは精神的な息切れも覚えた。しかしそれらはやはり今となってみるとある種のノスタルジアを俺に感じさせるのだ。もちろん日々は続いていく。少なくともこのブログでさえも今年いっぱいは続けるつもりなのでまだほんの一割弱の日々が過ぎ去っただけである。しかし、ただそれだけのことでもなお、俺の心にはノスタルジアが芽生えているのだ。これは別な見方をすれば恐怖である。風のように過ぎ去っていく日々をどうにか受け止めようともがいたとしても、それは結局のところあたたかいノスタルジアに抱きとめられてしまう。この感覚は疲れた時にどうしようもなく誰かに抱きとめられたいと思う気持ちと、それを許さない現実やそこから逃れようとする心の強さのようなものの葛藤に似ている。俺は日々、邁進していかなければならない。自分にとってより良い人生を謳歌するためにはまだまだ何もかもが足りないのだ。しかしそれらの気持ちに対してブレーキをかけるノスタルジアは、良くも悪くも俺の心を癒してくれる。中学生になったばかりのころから「青春」というものに違和感を覚え、それをひとつの時代と規定することを軽蔑し、ノスタルジアは唾棄すべきものであると断言して憚らなかった自分を思い出すと、それに抱きとめられたいという感覚を、葛藤の一端にせよ持ってしまった今の自分には、やはり老いと罪悪感を感じる。こうしてやがては枯れゆくのだろう。願わくば、やがてくるその時が訪れる前に、枯れても立ち続ける太い幹が育ちますように。

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