2009年2月15日日曜日

比較と相対。

文章だったらブログ、映像だったらホームビデオ、ダンスだったらパラパラ、とかなんでもいいんだけど、敷居の低いやりやすさで圧倒的に大衆を巻き込めるものが存在する。それらを語るときに使う言葉が相対であるように思う。行きすぎた相対主義は良くないなんて言説がよくあるが、その「いきすぎ」という言葉はあくまで主観にすぎない。どこまでいっても主観である言語で評価をするということは客観性を欠いた行為である。それはなんにためにもならない。主観はひたすら集積すれば客観に近づくが、それには膨大なコストがかかる。それを一人が言葉で発したとしても、それは飲み屋のたわごととなんら変わらない。それではそうならないためにはどうすればいいのか。その一つの解決法が比較ではないかと思う。比べる対象との相違点を明確にすれば、少なくともそれがどのような形状を持っているかを一断面にしろ切り取ることができる。もちろんこの場合も切り取る切り口自体は主観的になるのだが、切り取られた部分は客観性を保持しているので、その部分だけは評価することができる。だから教養的、学究的な人たちは、相対ではなく比較になるのではないかと思う。そしてこれはとても便利である。相対主義がはびこって共通前提が崩壊するのなら、それに対応する唯一ともいえる方法は比較主義に自分を規定して、そこからはみ出ないように評価し続けることである。

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