2009年1月28日水曜日

なかなかうまくない。

色々とやろうとして手を伸ばしているけれど、なかなかうまくないと自分で思う。基本的に俺は自分が迷惑をかけることが多いと思っている。そして最近それが多い。一つ一つについて考えすぎるあまり、二つ以上のことを同時に抱えたときに、どちらに対しても迷惑がかかってしまうのだ。自由でありたいと願うが、自由であることを自分でセーブしなければならない。そうしなければ結果的に自由は失われてゆくのだ。これは当たり前のことなのだが、俺を含めてなかなかバランスがとれている人はいない。自由を求める人は、まずあまり多くない。これは個性の時代だとか言われる現代だからこそ、少ない。さらにその上で、その求める自由に対して、一定度の距離を置くという人は、これはまさにほとんど存在しないに等しいのである。あるいは本当に存在しないのだが、だからといって自分の責務からそれを免除するわけにはいかない。それをやり続けるのが生きるということだと思うし。俺は価値あると思える人生を生きたいからである。こうしてすごく曖昧模糊としたことを、バラバラなままこうして語るということも、自由さのバランスがとれているかと問われれば、とれていないのだろう。一挙手一動作が果たして本当に自由であるかということは、哲学的であり、日常的である。

2009年1月27日火曜日

そうでなければならない。

確信をもって行動するということは、確信を持たなければ行動しないということだ。俺にはそういう傾向がある。はっきり言って不安である。誰もが不安な時代である。そんなときに行動を起こし、それによって何かを成し遂げようと思うなら、強く突き動かされる何かが必要である。そしてそれは確信につながる。これは確信だけにとどまる話ではないが、意味のある無意味と意味のない無意味がある。そしてそれを見分けることが重要な時代だと俺は思っている。そんなときに、意味のない無意味を重ねることは簡単に消費され、跡形もなく消え去ってしまうことにつながるだろう。それでいいならばそうするのもいいかと思うが、俺はそれでいいとは思わない。そう思うと確信なしには動けない。逆に確信が生まれたとき、どんなにそれが奇異なことであったとしても、動かなければならないと思う。そして事実、動く。とりあえずは確信に対して感覚を研ぎ澄ますことだ。そして一度拾った確信をつきつめ、それが本物であるか見分けることだ。そうすれば自然と行動はついてくるはずだ。俺は今までもそうしてきたし、これからもそうしていくはずだ。 Muss es sein? Es muss sein! Es muss sein! ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を読んでいます。面白いです。

2009年1月25日日曜日

長期スパンで。

長い目で考えることが重要なのだと思う。明日何をしているのか。一週間後何をしているのか。一ヵ月後何をしているのか。一年後何をしているのか。十年後何をしているのか。それぞれについて考えることが必要で、でも悩み抜こうという人間は「死ぬまでに何をしているのか」と己に問うことが大切なのだと思う。人生は迷い道で、迷わずに突き進む人には相応の終着点が用意されている。それは適度に賢く、社会的で、安定した生活なのだと思う。逆に迷い続けて進む方向を決めあぐねる人には、終着点などは存在しない。賢く、あるいは愚かに、社会的で、あるいは反社会的な、安定を欠いた生活が用意されている。待っていると言ったほうがいいのかもしれない。だからこそ「死ぬまでに何をしているか」ということが取りざたされるのだ。逆に、安定した行程を辿り終着点に到達する人間にとって、それはわかりきった愚問でしかない。死ぬまで考え続けるなんて、長期もいいとこである。もはやそれが目的と成り果てている。しかし悩むこと、考えることが好きな人間にとって、迷うことは目的としても差し支えない魅力を備えている。だからこそ迷いながらもそんな道を選択する人間が後を絶たないのだろう。あるいは彼らが作ったものが評価されるように芸術という言葉が生まれたのだろう。近年、社会を見ていると、スパンはどんどん短くなっている。そして短くなるのと比例するかのように芸術という言葉が濫用されている。そんなときにこそ、本当に迷う人間たちは困惑する。芸術という言葉が埋める部分が大きくなればなるほど、たくさんの存在が世の中にあふれ、それらが同一平面上に扱われ、迷うことない道を進まされてしまう強制力を感じるのだ。そう、確かに世界は進歩してきたのだ。もはや人は「生きてるだけでもうけもん」と言える時代になってしまったではないか。今日さえ考えれば生きていける時代になってしまったではないか。でも、やはり俺は、死ぬまで考えたい。そのように生まれついたと自分を信じて、死ぬまで迷いあぐねていたい。

2009年1月24日土曜日

自作引用2

予備校生の時に書きためていた文章の中から一部。
多少の加筆修正および削除を加えましたが、まだ若いのでパッションが先走っています。

『滑降コミュニケーション』
世間では馴れ合いが蔓延している。情報化社会によってそれは改善するどころか促進された。本来コミュニケーションというものは最初から円滑ではありえない。それは人間の本質がどれをとっても同じであることなどありえないからだ。
コミュニケーションとはその人間の本質という異なる形の歯車を噛み合うように削る作業に似ている。それぞれの歯車は最初、まったく噛み合わないことも多い。しかし削っていくとふいに噛み合う瞬間がある。そうしたらその部分を他にも応用していけばよいからそれほど難しくなく全体を噛み合わせることができる。そして一度噛み合った歯車は話題の転換とともに取り外される。人間は木やプラスティックではないからもう一度自分という形の歯車を取り出すことは容易である。そうしてまたコミュニケーションという作業が再開されるのだ。
馴れ合いはいわば最初からこの歯車にスポンジを巻く行為に等しい。よほど歪んだ円形でなければぎこちなくとも歯車は回転する。表面上はコミュニケーションとして成立する。しかし内部にどのような突起があってもスポンジが取れるまではわからない。それは本質的にはその人間のことを何も知らないということに等しい。
「空気を読む」という言葉がある。今現在この言葉を使っている人間はその言葉が「スポンジを巻け」と言っている可能性がある点を注意すべきだ。もちろん本当に「空気を読め」ていないという場合も存在する。それは誰かの計算、もしくはあるべき状況を著しく害する場合だ。そういう場合の「空気を読め」は逆に「歯車を削れ」となる。思うに最近の「空気を読め」は「スポンジを巻け」の場合が多すぎるのだ。これはもちろん私の周りだけを指している訳ではない。むしろ私はそのようなコミュニティーに赴こうとは思わない。世間一般の風潮としての話だ。
「一線を越える」という言葉がある。この言葉は否定的な言葉として使われがちだが、本来否定的である要素はどこにもない。辞書的定義によれば「現状を保つ限界を超えた行動をする」ということだが、これは現状を保つべきであるという前提の話でない限り否定的にはなりえない。私はいつでも一線を越える人間でいるつもりだ。
一線を越える人間は確かに存在する。一線を越える人間と一線を越えない人間は私の中では厳然と別けられているし、その分類は今後あまり大きくは変化しないだろう。もちろんこれは単なる私の主観に過ぎない。しかし私はこの主観を確信している。そしてその主観によって別けられた人たちの中からは三つの共通点を見出すことができた。一つ目はどの思想に対しても懐疑的であること。二つ目は「スポンジを巻け」とは決して言わないこと。三つ目は酒を飲むと議論を始めること。この三つである。
教師は一線を越える人間以外には向かない職業である。それは私の見出した共通点が正しいと仮定するなら理解されることだと思う。誰が好き好んで盲目的に追従する思想を持ち、スポンジを巻かせ、議論を好まない教育者に教育されたいと思うだろうか?もちろん一線を越える人間にも向かない者はいるだろう。しかしそういった人間の大半は「一線を越えてしまった」者たちなのだろう。彼らは本質的に一線を越えている訳ではなく、環境、知能、性別、人格、個性、そういったものとの軋轢から「一線を越えざるをえなかった」のだ。
芸術家は一線を越えた人間以外には不可能な職業である。盲目的に追従する思想を持ち、スポンジを巻かせ、議論を嫌う芸術家などナンセンスだ。「私には分からない」という言葉を免罪符にあたかも自分は門外漢であるようなそぶりを続ける人間にどれほどの芸術が創れるだろう?もしかしたらいま分からないといったものが次の芸術となるかもしれないのだ。政治が、宗教が、科学が芸術になりえないなどと誰が言えるだろう?理系?文系?じゃあ芸術家は芸術系の知識のみを習得して思うがままに創作活動を繰り広げればよいのか?そんなことはありえない。それでは単なるオナニズムである。一山いくらで売られるなんということはない作品を作りたいのだったらそうすればよい。
そしてオナニズムの蔓延した状態で発せられる言葉、それこそが「スポンジを巻け」という意味での「空気を読め」という言葉である。それぞれがそれぞれのスポンジを巻いた歯車、表面上円滑なコミュニケーションを披露している中で、本質に対して切り込もうとする剥き出しの歯車は確かに誰かの計算、もしくはあるべき状況を著しく害するかもしれない。しかしそれは本質的なコミュニケーションを求める真っ当な人間からすればあたりまえの行為なのだ。このことに気づかずオナニズムを続けることが真っ当であると開き直る人間が居たら、それはオナニズムの蔓延が常態化してしまった人間である。
人間が何かを表現するとき、大きく別けて二つの方法がある。一つ目はコップに溜まっていった水が溢れ出る方法で、二つ目がコップに溜まった水で何かを創造する方法である。具体的な言葉で方法を説明するとすればコップに溜まった水が溢れ出る方は普通、感情として処理され、コップの水で何かを創造するほうは普通、感性として処理される。これらはどちらの方法もバランスよく行っているのが真っ当な状態で、片方に傾倒しすぎるのはどちらにせよ問題である。
オナニズムとはこの溢れ出る、感情を開放し、感性はあまり開かない状態である。もちろん感性もある程度は開かれているが、感情の開放が優先されるのだ。このような状態が持続することによって人間はどんどん感情面に頼るようになる。本来ならば感情も感性もどちらも育っていくものであるはずが感性の成長が遅くなってしまうのだ。すると感情的な面が行動に現れやすくなる。もちろんそれをすばらしい方向に向けることも不可能ではないが、感性の辞書的定義にも「理性・意思によって制御されるべき感覚的欲望」とあるように、感性は感情に比べてコントロールが容易なのだ。それでは逆に感情を抑え、感性を開放するとどうなるのか?これではこんどは感情が育たない。感性は感情に比べてコントロールは容易であるが、そのコントロールは一定量以下のものである。あるとき許容量を超えた水はコントロールしきれなくなった感覚を抱えて情緒不安定に陥るのだ。つまりどちらにせよ偏りはコントロール不可能な状況を作り出すことになる。
このような状況から見て、現状におけるオナニズムの蔓延は危険な状態を招くことが目に見えている。では我々はどうすべきなのか?
(未完)

2009年1月23日金曜日

立ち上げる感覚。

DIYという言葉がある。Do It Yourselfの略語で、早い話が「自分一人で何でもやる」ということだ。この言葉は20世紀の中頃から至る所に現れ、世界を席巻した。特に音楽の世界ではその影響力はすさまじく、パンクやヒップホップはもろにその影響を受けている。これは端的に言えば技術と思想の進歩の結果である。楽器を弾けなくてもとりあえず持って音を出してしまう。今まで数多生まれてきた曲をサンプリングして音を出してしまう。技術と思想の革新に乗って、音楽はもはや誰でもコミットできる文化になったのだ。ってなもんである。そして技術と思想の革新はまだまだ波及している。いまや音楽だけではない。映画も会社も果ては政治までもがDIYの精神でもって一人で歩き出すことを許している。「ほしのこえ」を一人で作った新海誠、いたるところで生まれる個人事業主、東京都知事選に出馬した外山恒一などはその顕著な例である。そして俺はたぶんこのDIYの系譜に名乗りをあげたいのだと思っている。これからの時代、何をやるにしても、まずは自分動かなければ話にならない。もちろん、その時々に縁があった人と共同で動くことはいいだろう。しかし基本的に、まずは自分、自分が何をしたいのか、あるいは自分がどうなりたいのかである。それを信念として持っていたら、周囲に何を言われてもあとはそれをやり通すのみである。そんなときに、立ち上げる感覚というのは非常に重要になってくる。誰かから何かを引き受けるとか、あるいは誰かに何かを引き受けてもらうというのは、何かをするときに非常に多く遭遇するシチュエーションである。その時に、誰かから何かを引き受けたり、誰かに何かを引き受けてもらったりしたとしても、自分がそこにいて、立ち上げている感覚というものを、研ぎすまさなければならない。それは単なる技術論ではなく、それを超えた精神的な何かである。それさえあれば何かを成し遂げることはたぶん結果としてついてくるだろう。人生が終わるときにでも振り返ってみれば色々なものが残るに違いない。逆に、いくら大金を稼いだとしても、いくら社会的地位を築いたとしても、それがない人間を焼いた後には骨も残らない。少なくとも俺はそう考えるし、実際にそうなのではないかと思う。そして、その傾向はますます顕著になっていくはずだ。

2009年1月22日木曜日

文化系男子3

2009年1月20日火曜日

ナチュラル☆ぱんぴー

小学校の頃、周りの奴がぱんぴーじゃない俺をからかうことが良くあった。その頃、俺はぱんぴーに憧れていて「みんなの輪に溶け込む」ということを至上命題としていたが、いつもずれていた。ナチュラルな行動をとるとどうも周囲から浮くのだ。そして俺は中学に入った。頭いい奴がいっぱい居て、そいつらは「ナチュラルじゃつまらないからあえて」変人な奴が多かった。そこでは「ナチュラルに」変人な俺はやっぱりからかわれた。そしてその頃、やっぱり俺はぱんぴーに憧れていた。より正確に言うなら「ナチュラルじゃつまらないからあえて変人な奴」というぱんぴーに憧れていた。そうして結局ぱんぴーになれないまま高校を卒業した。その後、俺は引きこもったり食べ物を拾ったりして一年を過ごした。引きこもりとホームレスはその頃の俺にとって天使だった。ナチュラルだからこそ引きこもり、ナチュラルだからこそ家が無くなるのだと半ば信じていた。今でも少し信じているかもしれない。その無意味な一年間を過ごした俺は、やっぱり引きこもりにもホームレスにもなれない自分を発見した。俺はナチュラルになりたいがために変人をやめた結果、ナチュラルでも変人でもないただの人になっている自分を発見したのだ。そう、まさに夢見たユートピア、ぱんぴーになった瞬間である。・・・と言いたいところだが、それはぱんぴーではなかった。ユートピアにたどり着いたらそこは地獄の入り口だったのだ。俺はこの先どうなるのかわからない。変人でもナチュラルでもなくなっちまったから、もうなにもかもわからない。時々芸術をする、時々仕事をする、時々退廃をする。なんだかよくわからない。でもそれでいいと思ってる。たぶん俺が夢見たのはナチュラルにぱんぴーな奴だったのだ。平和に暮らしたかったのだ。別に好きでドン引きされるわけじゃない。空気のように溶け込んで、縁の下の力持ちよろしく世界を支える、すばらしくまともな人間たちに俺は憧れていたのだ。しかしそんな気持ちは、今はもうない。

2009年1月18日日曜日

名作引用6

ボーンズ ゆらゆら帝国
彼女は決めた 強く誓った 今日から決して 年をとらない
白い光の中 何をするでもなく 耳を澄まして ただそこに居た
あの好きだった レコードを 聴きながら
時計の役目は 終わった 終わった
彼は気づいた いつでも蝿が 彼の周りを 飛んでいること
部屋の鏡の中 見慣れたその顔は 誰だか急に わからなくなる
まだ子供だった頃出会った闇のような
魔物が背中に現る 現る
あの好きだったレコードを聴きながら
時計の役目は終わった 終わった

表現者として死ぬとき、骨になるとき、人には二種類の傾向があると思う。ひとつは諦めてしまうこと、もうひとつは変わらないことである。その意味においてはこの歌詞における「今日から決して年をとらない」ことと「いつでも蝿が彼の周りを飛んでいる」ことはそれぞれその前者と後者に対応するだろう。前者の末路は「耳を澄ましてただそこに居る」ことであり「あの好きだったレコードを聴く」ことである。後者の末路は「見慣れたその顔が誰だか急にわからなくなる」ことであり「魔物が背中に現る」ことである。自分で言うのもなんだが、俺は表現をやめない。少なくとも今のところ辞めるつもりはない。すると気をつけるべきことは後者である。俺はちゃんと変わっているだろうか。少しでも前に進んでいるだろうか。そういったことを考えるのは常に必要である。そして背中に魔物が現れても、怖気ずに追い返すことである。表現をしている限りにおいて、不安は常に存在しなければならない。不安の存在しない表現は、自分を殺した表現である。誰でも自分の自信と不安に挟まれ、右往左往しながら進んでゆくのだ。ゆらゆら帝国は特異な文脈で出現してきたバンドである。この曲には本来彼らが伝えたかった虚無感と、表現をする上での右往左往が、つまっているのではないだろうか。

一人笑い。

これからの時代においては「自分が面白いと思う」ことと「面白いとされる」ことは明確に区別されなければならない。前者はいわゆる「一人笑い」という奴で、オタクがコミケに並びながらニヤニヤする、お笑い芸人が自分のボケでニヤニヤする、おじいちゃんが自分の盆栽を見てニヤニヤする、などを指す。後者はいわゆる娯楽という奴で、映画や演劇でのコミカルな要素、お笑い芸人のウケるネタ、身内で盛り上がる話、その他もろもろの「自覚的な面白さの追求」を指す。俺は現代はコミュニケーションが孤立していく時代だと思う。インターネットや様々なメディアによってコミュニケーションは結果的に孤立したと考える。そういう時代には必然的に皆「一人笑い」を始める。自分だけの密やかな楽しみというものはいつの時代も存在するが、それは現代になってさらに増えつつあるのが現状なのだと思う。すると「一人笑い」の商品価値はとめどなく下降する。昔はきちんと商品として認められたものがどんどん価値を下げて商品にならなく、つまり趣味として扱われてしまう。あるいは大衆文化として認められていたものがサブカルチャーにカテゴライズされてしまう。それのあおりを最も受けているのが芸術や芸能の分野だと思う。たとえば老後にダンスを習い始める、あるいはなんとなく小説を書く、あげくに趣味としてお笑い芸人を目指す、そういう人たちはいくらでも存在している。それは仕方がないことだ。そういったものをやるときはストイックでなければならない、なんてことはなくなってしまったのだから。するとそういったものに商品価値を持たせるためにはそれらの純粋な部分以外で何か価値がなければならない。それがエンターテイメント性であり、バランスであると俺は考える。そして商品価値が存在しなくてもいいというなら、周囲に評価を求めるべきではない。だってそれには客観的な価値がないんだから。そして俺は周囲にどれだけ評価を求める、賞賛を求めるのかということは、常に自覚していなければならないと考えている。つまり、自分がどれだけ世間で目立ちたいのかを自覚することが必要なのだ。そして、そのために戦略を考えるのだ。アンディ・ウォーホルは「未来には誰でも十五分間は世界的な有名人になれるだろう」と言ったが、これを基準に言い換えるならば「自分は何分間世界的な有名人になりたいのだろう」と考えることが必要なのだ。そしてそのためにはどうするべきかを考え、行動することがそれの実現につながるのである。これは別に名誉欲について言っているわけではない。有名人になるということは、商品価値を持つということだ。この論理からは逃れられない。俺が「一人笑い」を価値ある商品にしたいと考えるならば、避けては通れない道なのだ。俺は自分に価値がある考えている。俺が書いた小説には価値があると考えている。だからこそ価値がないと言う人たちが認めざるを得ない価値を付与することが必要だと考える。その方法は権威の力を借りることかもしれないし、あるいは大衆の力を借りることかもしれない。いずれにせよ「一人笑い」を認めて欲しいと考えるならば、それに見合うだけのものを身に着けなければならない。周囲に自分の「一人笑い」が認められないことがあったらまずは自分を省みなくてはならない。それ自体を省みる必要はない。表現はどこまでいっても所詮は「一人笑い」である。自分の小説が周囲に酷評されたとしたら、それはその小説が悪いのではなく自分が悪いのだ。自分のダンスが周囲にダサイと言われたとしたら、それはそのダンスが悪いのではなく自分が悪いのだ。自分のネタが周囲に受けなかったとしたら、それはそのネタが悪いのではなく自分が悪いのだ。周囲や作品を責めるべきではない。それはどちらに対しても失礼である。

2009年1月16日金曜日

名作引用5

ぼのぼの いがらしみきお 一部引用
そうか
ボクたちはバカだったのか
生きていくのに必要なのに
空を飛べないのも
生きていくのに必要なのに
自分が見ていない時のことを
見れないことも
ボクたちがバカだからできないのか
食べても食べてもお腹がすくことや
歩くと必ず疲れるのも
きっとボクたちがバカだからなのだろう

今日が終わって、それがどんなに濃密で楽しい一日だったとしても、明日また目が覚めて、結局やることは、楽しければ笑い、悲しければ泣き、モソモソ飯を喰うだけのことで、そこに意味を見出そうと、あるいは無意味と喝破しようと、そんなことは瑣末な問題なのだ。これは虚無感、厭世観、そういう言葉で覆い隠せぬほどの現実であり、これを抱えて生きていかなければならない根本的な矛盾を人間ははらんでいる。その矛盾にこそ美しさや悲しさや、あらゆる芸術的表現の根源があると俺は思う。

日和かな。

文章を書くというのは日によってまちまちな行為である。ものすごく進むときもあるし、今日はもうだめだという日もある。もちろんモチベーションを無視して無理やりひねり出すこともできるが、そういう文章は後日読んでみるとやっぱりうまくいっていない。逆にモチベーションが高くてノッている日の文章はまるで自分が書いたとは思えないほどうまくいっていたりする。夏目漱石は「坊ちゃん」を書いたとき、あれだけの長さがありながら、たった十日で書き上げて、しかも書き損じが一枚もなかったというが、思うに、それだけのモチベーションを叩き込めて、すらすら書きあがってしまったのだと思う。俺はそういう小説がひとつでも書けたらもう死んでもいいと思うが、それはまだまだ先のことだろう。いまはまだ色々なものが足りないのだろうと思う。それらを拾い集める作業をまだまだ続けなければならないのだ。今日はモチベーションが高かったので文章鍛錬として書きものをしてみようと思う。小説も、詩も、ブログも、書くべき場所はいくらでもあるのだ。

それでも自分が正しいと。

俺は自分が正しいことなんかひとつもないと思っている。間違えだらけで生きている、挙句の果てには生まれてきたことが間違えなんじゃないかと本気で思っている。そんな俺だが、やっぱり人の欠点というのは岡目八目、よく見えるわけで、そういうときに相手が聞いてくれないのはやはりさびしいものである。自分が間違ったことをしでかしたときに、それでも相手に少し物申したいことがあって、自分の話をとりあえず反省してから言うことは、それほど良くないことなのだろうか。というよりも、そういうことを言われたとき、自分は相手よりも正しいから、相手の話を聞かない権利があるとばかりに対応するのはよろしくないのではないか。俺は基本的にこの世は金銭か寛容でまわっていると思っているのだが、俺は金銭に執着がないというよりは、金銭よりも寛容を失うことのほうが嫌なので、寛容を選択してしまう。そしてそういった傾向のものと楽しく暮らしていこうと考えていたのだが、どうしてなかなか様々な要因で寛容というものは失われてゆくのだなと思って悲しくなった次第である。信頼は幻想であるという話をしたが、その幻想のために人は金銭か寛容かを選択するのである。幻想がなくなったときに息が詰まるのと同様に、金銭を選べない人間に寛容が失われたときに息が詰まるのは、あたりまえの道理である。そして呼吸困難に陥った後に気づいても、深い爪痕を残して、あるいは重い後遺症を残して、生きるか死ぬかの博打を乗り切らなければならぬ。そんなのは嫌だ。なぜ寛容になることができないのか。俺自身にももちろん常に問い詰めるべきことだが、周囲にそれを問い詰めたときの、そしてそれに対する冷ややかな視線の、なんと虚しいことか。感情が漏れ聞こえてくる人ほど、寛容さは失われている。以前も書いたが、感情を吐露して同情を誘うのはみっともないことだ。それに気づいてから、どういう時に感情を吐露すべきなのかを見極めるのが、感情のコントロール、感情を含めた自己の客観というものではないかと思う。少なくとも俺はそう思う。だからその道に進むだけのことである。

2009年1月15日木曜日

こんな時代。

左翼も右翼もなくなった。大きな物語が終わった。なんでもいいんだけど、とにかくこれからは、一人一人がちいさなマルクスにならなければいけない。ここでマルクスと言ったのは、別に左翼思想を考えようとかそういうことではなくて、何か熱中できる大枠を見つけて、それに没頭してみようじゃないか、ということ。昔だったら一人一人が哲学者にならなければと言ったところなんだろうけど、マルクスがヘーゲルを頭でっかちだと言ったように、哲学者は頭でっかちだから、俺は哲学者にならなければとは思わない。マルクスのように哲学を自分なりに噛み砕いて、好きなことを考えることが必要だと思う。

2009年1月14日水曜日

名作引用4

IN THE FLIGHT FISHMANS
四つ階段を駆け上がってドアをあけてのぞきこめば
その眠たそうな空気が好きだ
調子がよければいいね そんな気配を感じたなら
陽気にお邪魔もできるさ
ドアの外で思ったんだ あと十年たったら
なんでもできそうな気がするって
でもやっぱりそんなの嘘さ やっぱり何も出来ないよ 
僕はいつまでも何も出来ないだろう
空に寄りかかって 二人の全てを頼って どこまでも飛んで行く
いつでも僕らをよろしく 頼むよ
IN THE FLIGHT IN THE FLIGHT
IN THE FLIGHT IN THE FLIGHT

色々なことを考えて、どうにか実現したいと思っても、なかなか難しい。俺は何もできないから、なんでもできると思っている。不器用なのだ。だから何もできないけれど、なんでもできると信じている。たった一つのことでさえうまくやっていくことは難しい。いや、たった一つのことだけでうまくやっていくのが難しいのかもしれない。いずれにせよ、俺はたぶん何一つうまくできないまま終わるだろう。小説だって、演劇だって、映像だって、音楽だって、あるいは日常生活だって、何一つうまくできやしない。バランスよくひょひょいのひょいと何でもこなしていく人たちを見ていると、本当にうらやましいと思う。そういうことが、俺に限らずたぶんそれぞれにあるんだろう。そしてそれがどうにかなって生きてるんだろう。自分が悪いと思ったことは正していかなければならないけど、バランスが取れないことで絶望する必要はないのだと思う。

文化系男子2

2009年1月12日月曜日

羨望と憧憬。

出発点からようやく進んで来て、どうにかたどり着いたこの場所ではあるけれど、足跡を一つずつ辿って戻ることは、走馬灯のように瞬間にできる訳で、それを考えることで、なにか思い出せることがあるのだとしたら、それを得るための感触、そのたくさんの記憶以外なにも存在しないはずの部分に何かを見出すため、必死に存在すらわからない何物かを探る感触、それを感じることは、やはり重要だと思い、それが、そんなことを感じることがいったい何になるのかと言われれば、それは確かにノスタルジー、過去への羨望と断定されても仕方が無く、それを今まで俺は否定してきたが、そしてもちろん、ノスタルジーは唾棄すべきものであるということは、紛れもない事実ではあるのだが、過去への憧憬は、やはり俺も感じる瞬間があり、そしてそれは不可分だと言われてしまえばそれまでではあるが、羨望と憧憬との違い、その違いという物を明確にするということが、まずは自分自身の過去に対してフラットな、この間の日記に書いたことを引用するとすれば、天使の視点への第一歩だと、最近は考えるようになった。

どっかいった。

何か見つけようと思うなら、決めちゃダメかもしれない。だから何も持たず、歩かなければならない。変わらないのは良くないし、変わりすぎるのも良くない。まだまだ居なくなるわけにはいかないけど、ただただそこに居るのは良くない。そうして過ごしていく時に一番大切な気持ちは「どっかいった」なんだと思う。てな具合でぼんやりと書き記すことはできたとしても、それがどの程度のものなのかなんてことは、もはや当人にすらわからない。今からこうします、っつってどうにかなるもんじゃなし、かといって、語らずに終えるとしたらそれこそ当人以外は理解できない。やたらめったらやったとしても、めくらめっぽう転がったって、やっぱりどっちか見ちまうし、それが嫌ならそれだけを意識するしかないだろう。こういう当人にすりゃ高尚、はたからみれば陳腐なもんでも、時にはそれをやってみて、そのあと考えたいなんてことは、別に悪いことじゃない。そう思う。一人称については、始める時に結構悩んだ。私でいくのか俺でいくのか、はたまた何かしらそれ以外でしっくりくるものがあるのか。結局俺は俺を選んで、いまんところはそれできてるけど、この先どうするかはわからねぇ。文体は別に真似してる訳じゃありません。それだけは信じてほしい。オリジナルだと高らかに宣言するつもりは毛頭なくて、でも二番煎じとかパクリとか言われると、それはそれで腹が立つ。程よくそのへんをごまかしてやったって、別に罰は当たらないと思う。そんなにすべては見渡せない。俺は君たちが好きだから、それを拒否されると酷く悲しくなる。そういう悲しい気分を埋めるには、どうにか承認が必要で、それはなかなか得られない。誰でもいいとは言わないが、誰かしらの承認が必要で、そんな危うさの上に成り立つアイデンティティ、それが現代の個人ってもんなんじゃねえの。どっかいった。そんなものはどっかいった。そう言えれば強いと思うし、極論それを目指すんだけど、それはある種のユートピアで、手に入ったらディストピア。理想と現実はどちらもどちらをアンビバレントに感応させる。それでいいじゃねえか。そうやっていくよ。そうして俺はどっかいくのさ。だからそんな風に冷たくしないでください。心はあります。解剖しても出てこないけど。

2009年1月11日日曜日

信じる、バランス。

人はそれぞれ自分のバランスを崩さないように生きている。ここでいうバランスとは細かい一つ一つの要素においてではなく、人間としてのバランスという大枠の話だ。バランスを崩すときというのは死ぬときである。そして、価値観が違うというのはこのバランスを取る場所が違うときのことをいう。たとえばBNEというグラフィティアーティストが居る。俺もこの間、初めて教えてもらって、それから知っていそうな人やインターネットで色々調べてみたのだが、どうやら「ボム」というタイプのグラフィティをする人なのだそうだ。彼はBNEと書かれたステッカーをとにかく世界中に「ボム」することによってグラフィティアーティストとして、あるいは「ボマー」としての活動を展開している。そして、その意味は誰にもわからない。俺はそれによって何か金銭的な、あるいは知名度的な対価を得ているのかと思っていた。しかしBNEはそれによって極端に何か対価を得ていることはないらしい。彼の名前はもちろんアンダーグラウンドでは有名だが、それによって彼がなにかの利益を得ている様子はないらしい。つまり本当に彼の活動は無意味さと紙一重なのだ。俺は自分の存在理由を揺さぶられる思いがした。それは紛れもなく芸術であると俺は思うからだ。そしてそれは俺がある種、理想としている芸術の姿であるからだ。そして俺は自分を守るために論理立てて反論した。彼は賢くない、なぜそれだけ知名度がありながらそれから価値を生み出す行動をしないのか、と。しかし理由はわかっている。それが目的ではないのだ。知名度を上げるのも、何かしらの対価を得るのも、BNEの行動原理には存在しないのだ。彼は文字通り「やりたいことをやっている」だけなのだ。普段は一般的な社会生活を営み、それ以外のときはBNEのステッカーを貼るという「やりたいこと」をやる。それでいいではないか。まさにその通りだ。激しく二人の俺が言い争いを繰り広げた。おまえの覚悟はそれくらいか。いや、これは覚悟ではなくバランスの問題だ。最終的に俺は、覚悟を振りかざして対価を求めずに活動するもう一人の俺を殺した。殺したのだ。そして俺は今、バランスを崩さずに生きている。俺は、少なくとも自分の生活が成り立つ程度には、魂を売ってでも金を稼ごうとするだろう。対価を得ようとするだろう。俺はそこまでを含めて芸術家になりたいと思っているし、そのバランスを信じて行動するだろう。それが正しいのかは、死ぬまでわからない。でも俺はそれを正しいと信じる。俺は俺のやりたいことで、金を稼ぎたい。それ以外の部分でバランスを取れるほど、器用ではないのだ。

2009年1月9日金曜日

名作引用3

さようなら、ギャングたち 高橋源一郎 一部引用

私たちは、ギャングであることを自由に選択しました。その選択は義務でも強制でもありませんでした。もし再び、私たちに選択の機会が与えられれば、私たちは喜んでギャングであることを選ぶでしょう。

私たちは、ギャングであることを特権であると見なしたり、またギャングであることに卑屈になったりもしませんでした。

私たちは、ギャングであることは相対的なものだと考えました。私たちは、私たちの生存しているこの世界との関係の中でのみギャングであり、この世界との関係の変化だけが私たちをギャング以外の存在に変化させるものと考えました。

私たちは、一般にギャング的であると信じられている恰好・様式に従いました。私たちは、人々を当惑させるような行動をとったり、珍奇な言辞を弄することを避けましたし、全く新しいギャングになろうとも考えませんでした。それでも、時として私たちの行為が『ギャングを逸脱した、珍無類な』ものと受けとられることがありましたが、誤解を招くことを恐れて私たちのやり方を無理にねじまげるようなことは決してしませんでした。
10
私たちは、人を殺し、金(マネー)をうばうことが、創造や建設につながるとは主張しませんでした。私たちはただのギャングであって、予言者ではないからです。
11
私たちは、この世界について私たちがもっともよく理解しているとは主張しませんでした。私たちは、行動の基準をいかなる意味においても正当性(ジャスティス)におこうとはしませんでした。私たちは、私たちの視野もまた視野である限り、さけがたい限界をもつものと考えましたが、同時にそのことが私たちの手を縛ることのないように心がけました。私たちが、無限の相対性の連鎖(リンク)に一つとしての視野しかもてないとしても、私たちは私たちの生存の与件を呪詛するよりも、喜んで受け入れるべきだと考えました。
12
私たちは、私たちのまねをする人たちが現れるようになっても、そのことによって有頂天になったり、気もそぞろになったりしませんでしたし、私たちのまねをする人たちにお説教めいたことを言う必要も感じませんでした。私たちのまねをすることがどのような結果を招くのかは、その人たち自身が勝手に知ればいいことだと、私たちは考えたからです。
13
私たちは金(マネー)の問題については、ある意味では悲観的な立場をとっていました。この世界に於ては、金(マネー)の本質は仮象(シャイン)だからです。金(マネー)は、私たちが相対的な存在であるのと同じように相対的です。私たちが奪う金(マネー)の総額は、前もって計上される『雑損控除』の上限をこえることはありません。別の表現をとるなら、私たちは会計上では、強盗を働いていないのと全く同じなのです。『強盗』は投入(インプット)=産出分析(アウトプット・アナリシス)の中の一つの情報(プログラム)、仮象(シャイン)の中の仮象(シャイン)にすぎないのです。
14
私たちの行動の中には、たしかに不合理な夢が混じっていますが、私たちはそれをやみくもに排除しようとは思いませんでした。何故なら、それらも私たちギャングにとって不可欠の属性だからです。私たちは、蒸留水であろうとは、一度も思いませんでした。
15
私たちが明証的であると考えていることが、他の人たちにとってはそうではなく、又逆に他の人たちが明証的であると信じていることが私たちにはそうではない、といったことがたえず起こりました。私たちはそれを喜ばしい状態であると考えました。私たちは、私たちを支持する意見よりも私たちに反対する意見を好みました。
16
私たちは、私たちの行動から何らかの抽象的な観念を、ひきだそうとは思いませんでした。私たちは、行動から観念をひきだすことにも、反対に観念から行動を導きだすことにも警戒心をもちつづけました。私たちは、私たちがだれでももっている知恵、そしてあまりに普遍的なために忘れかけている知恵から、直接に私たちの行動をひきだすことにしたのです。
17
私たちは、行動を終えた後、夜、机にむかっている時めまいがするほどの不安を感じます。それは私たちが、毎日少しずつこの世界から遠ざかってゆくという不安です。それは私たちが、私たちの手でなしとげたことと、私たちがイマージュのうちに育んでいるものは全く正反対の姿をしているという不安です。そんな時私たちは、逃げだしたい、何も考えたくないと叫ぶ私たちの心に、その不安から目をそらしてはならないと命じました。目を両手でおおってはマシンガンをもつことは出来ません。それはギャングであることを放棄することなのです。

高橋源一郎という作家の物悲しいリリシズムの源泉が、最も露骨に表れている文章である。著者略歴からもう少し引用すると「1969年4月 某国立大学に入学したが行ってみると学校は存在していなかった」という訳だ。俺はこの文章を見るたびに悲しい気持ちになる。この間、ジョージ・オーウェルの動物農場を見たときも同じ悲しみを感じた。人は誰も間違っていない。ただ現実としてみたときに、そこには不幸が存在している。そういう不条理さが俺の心を悲しくさせる。そして誰もがこの不条理さに敏感であれば、悲しみはなくなると信じている。俺の表現の目的はもしかするとそれだけなのかもしれない。

2009年1月8日木曜日

天使の視点。

主観と客観という視点がある。自分を中心にしてみたときに現実がどうなっているかを考えるときと、世界全体を見渡したときに現実がどうなっているのかを考えるときで、人は視点を変えなければ行けない。しかし、この二つの視点だけでは二元論の構図に陥ってしまう。それではどうすればいいのか。表題の天使の視点というのはその一つの指針を示す言葉だ。ヴィム・ヴェンダースという映画監督の言葉なのだが「主観を人間の視点、客観を神の視点としたとき、我々が真に目指すべきはその間を漂う天使の視点である」というわけだ。現実を見ようとするとき、我々は主観的になるのを恐れるあまり、客観的にさえ見ていれば、現実を認識できていると錯覚しがちである。しかし客観的に見るだけではあまりに遠くから見すぎているために、物事の裏側を見失う可能性がある。天使のようにふわふわと漂って、背後にまで回りこんで見ることが必要なのだ。もちろん、天使の視点を手に入れるためには常に主観と客観を正確に認識しなくてはならない。そしてその中庸ではなく、両極を同時に意識することで初めて初めて手に入るのではないかと思う。

ネタとベタ。

江戸っ子という言葉がある。今ではもう死んでしまったかのように思われているこの人たちは、しかしまだごくわずかだが存在している。それを特に感じるのが地元の安いフリー雀荘に行って老人の方々と接した時だ。年金生活でちょっと麻雀を楽しもうという感じで集まってくるこの人たちの話は、面白い。俺は昔、小遣いがあるときなんかによく雀荘に遊びに行ったが、その目的の一つにこの人たちの掛け合いを聞きにいくというものがあった。とにかくお互いに思ってもいないことを悪く言う。たとえば麻雀中にいきなり「おめぇみたいな馬鹿がよくこんな長生きしたよ」とか「こんな馬鹿ヅキ女に不幸にされた男はたまったもんじゃねぇや」てなことを言ったりする。そして言われたほうはそれを冗談と理解して笑う。フリー雀荘という性質上、集まる人々はお互いに素性を知らない。しかし、こうしてお互いに気さくに冗談を言い合うのだ。俺はこういうコミュニケーションが好きだ。そして自分もこうありたいと思う。本心をベタに語って同情を買うのはみっともない。普段は本心など隠しておくべきなのだ。それがたとえ何かメディアに乗ってしまうものだとしても。そして観客はそれを理解した上で楽しむべきなのだ。それが本音と建前の正しいあり方ではないか。それの行き着く先がロールプレイであり、すなわち文化が高いということではないか。だから俺はこのブログで発言していることも、常に本音と建前、あるいはキャラクターと本当の自分、ネタとベタが混ざっている。そしてその上で受け取って欲しいと思っている。それができない人はもしかしたら俺のことを誤解したまま去っていくかもしれない。でも俺は仕方がないと思っている。とても悲しいけど、俺は本音を語りキャラを演じずに生きていけるほど、素直でも無邪気でもないのだ。

2009年1月7日水曜日

文化系男子1

軽やかに自由に。

身体表現は少し間違えるとすぐに技術論に堕してしまう。芸術に求められるのがあくまで身体から出てきたもので、それを器に流し込むことが重要だとするならば、身体との距離が近いんだから当たり前なのかもしれないが、とにかく技術論が語られる。それの極端な例が伝統芸能だろう。本来、人は自由に踊っていいはずだ。自由に演じていいはずだ。自由に歌っていいはずだ。それなのにそこに上手、下手という価値観が入ってきてしまう。もちろんそれはひとつ、重要な価値観ではあるのだが。逆に、あまりにその価値観を退けすぎてしまったのが、詩の世界だ。いまでは上手い詩というものはこの世に存在しないことになってしまった。本当にそうだろうか。詩に上手、下手ひいては美しいという価値は存在しないのだろうか。俺は自分は美しい詩を書こうと思っている。そしてその価値観は良いと思っている。でも、それにこだわりすぎないことも重要だと考えている。俺の周囲の奴が書く詩は、みんな俺よりもよっぽど良い。上手いでも下手でもなく、美しくでもない。でも俺よりもよっぽど良い詩を書く。そしてそれは素晴らしいことじゃないかと俺は思う。だから俺は自由に踊る、自由に演じる、自由に歌う。自信を持って、誇りを持って。べつに踊ることも演じることも上手くはないし、美しい動きとは程遠いだろう。それでもリズムを感じたら踊ってしまうし、雰囲気を感じたら演じてしまうし、音楽が聴こえたら歌ってしまうのだ。それはとても楽しい。とてもこの世のこととは思えないほどに。

休載あるいは断筆。

俺が好きな作家は、あるいは俺が好きな作品は、未完が多い。原作者ともめたとか、スランプに陥ったとか、体を壊したとか、なんか色々な理由がついては話の途中でとまってしまう。でも俺は仕方ないことだと思っている。表現はビジネスじゃない。何か表現作品を作るときに、自分でできる限りのこと以上をすべきではないと俺は思っている。誰かがノルマを決めて、それの通りにやるなんて馬鹿げている。計画性なんて失笑ものだと思っている。だって、それで生まれたものなんて、自分がやりたいことではないじゃない。昔、編集は原稿とりだったらしい。それが今では作家と二人三脚で作品を作っていく役目だとかなんだとか言っている。はっきり言おう、余計なお世話である。作家が作品を書けないときに、編集は無責任にも期限で取り立てようとする。ふざけるなと思う。そんなことだからまともな作品を書ける人間が減ってしまうのだ。読者の期待に応えろなんてあいまいな責任の取らせ方をするなと思う。もし、読者の期待に応えないで苦労するとしても、それは本人の問題なのだ。他人に言われる筋合いはない。だから俺は自分が好きな作家が休載したり、あるいは断筆したとしても、責めようとは思わない。恋焦がれるように再開を待つだけである。それが好きということではないか。惚れた弱みというのは良い言葉だ。惚れたならあきらめろ。責任の所在をはっきりさせて糾弾するなんて、まるで何かの契約みたいでぞっとすると思わないか。

2009年1月6日火曜日

小言と『演歌』とときどきファッショ。

俺が嫌いな古びた価値観。しかも、これらを感じる人はだいたい三つセットで感じる。逆に感じない人はどれも感じない。まあ小言も『演歌』もファッショ的に押し付けられるのでそういう時は絶望した気持ちになる。そして最近、特に絶望するのが『演歌』かな。なんで括弧でくくっているかというと、坂本龍一の発言から文脈を引用したいから。坂本龍一の言葉の要旨は確か「日本ではなんであんなに演歌がもてはやされるのか理解できない。オリコンチャートに入る曲も、俺の戦場のメリークリスマスも、あるいはちょっと洋楽が好きで聴いてるやつも、みんな『演歌』ばっかり聴いてる」みたいな感じ。言いたいことはすごいよくわかる。五年程前にミステリーが流行った時、ミステリーを競って書く人がいっぱい居て、俺は不思議だった。ミステリーを書くならばミステリーの枠を超えなければならないと俺は思う。トリックとキャラクターを入れ替えれば交換可能な作品を量産しても意味ないじゃんと思うのだ。まあビジネスと割り切ってやるならまだ理解できるが。個人的にはビジネスとして割り切った森博嗣は好きだけど嫌いだ。昨日べろべろに酔っ払って今朝二日酔いで思った。酒は好きだけど嫌いだ。と同じ感じ。そういう意味ではオリコン上位を狙う『演歌』もあるいみ好きだけど嫌いなのかもしれない。別に懐メロとかも聴くしね。でも移り変わりが激しすぎるかな。そんなに脊髄の反応が良くないんだよなぁ。

NHK教育ががんばってた。

今までNHK教育テレビの五十周年特別番組見たいなのを見ていた。今まで動いている映像をほとんど見たことなかった人が比較的たくさん出ていてとても良かった。しかし、巨匠という名目で芸術家がたくさん出てきたのだが、小説家の多いこと多いこと。やはり活字というメディアはテレビが発達しても大きな影響力を保持しているのだなぁと思った。

2009年1月4日日曜日

Malcolm X。

人は孤立しなければならない。独立して各々の道を行かなければなけない。最後は一人で闘わなければいけない。しかしなかなかこれは難しいことだ。近くに居る友達や、家族や、仲間を信頼したい気持ちはとても強烈な欲望だし、信頼している人間となら何かを一緒にすることはできると考えるのは当然の話だ。しかし誰かと何かを一緒にすることは、幻想だ。何かの組織に所属することは、幻想だ。基本的に人間には一人でする行動しかありえない。そして時々、ほんとうに時々、一緒に何かをできたという幻想を信じることができるのだ。もちろん夢から覚めるまでのほんの短い間だが、信頼という言葉がまるで存在するかのように生きることができるのだ。しかしそれは生きていくために必ず必要な幻想ではない。だからこそ、人はそれに憧れ、夢見るのかもしれない。俺はあまりそういう憧れは強くないほうだが、それでもそういう幻想を抱えた未来は素敵だなと思える。もし俺たちが素敵な未来を実現するために生きていこうとしているなら、進んでそんな幻想を抱えるのもいいかもしれない。現に俺はそうやって夢と幻想の世界に生きていこうと心に決めている。そしてその時に個人的に守ろうと思っていることが三つある。

・目に見える結果を期待しない。
・自分以外の人を信頼しない。
・常に正しいかどうか考える。

Malcolm Xは面白い映画だった。

自作引用1

高校生の時に書きためていた詩が出てきたのでその中からひとつ。

『破綻』
後はいつまでも嘘。
絵は俺に気付かなかったりしてくれたけど
駒場を境目にしたりする選民思想。
そらしたりしたらまたチャリに追いかけられる!
伸びる敵、とんかち、茄子
みんなにやにや笑うぬいぐるみを持ってるね。
おのおのが迫害を拾って振り付けをする。
変態が欲しがるような味方が向かいます。
目を野暮用の時、友人にあげたように、ラーメンの料金をおごるぜ。
レーベルは「ローミングワールド」を選んだけど?
俺は破綻が許せない。
絶対に許せない。

2009年1月3日土曜日

君もヤクザになれる。

寺山修司は死んだ。宮台真司はこれを共通前提の崩壊した象徴的な死だと言う。『短歌でデビューし、劇団を主催し、映画を監督 し、歌謡曲を作詞し、エッセイを書き、競馬評論を書くといった分野横断的なカルチャースターは以降あり得なくなります。』それから二十五年が経ち、俺たちは何を見つけ出せただろうか。もちろん共通前提は崩壊したままだ。しかし崩壊した共通前提の先に残る様々なサブカルチャーに何かしらの普遍性を見出せるのではないだろうか。俺はそれこそが現代に必要な要素だと信じている。ある意味で知名度を上げて何かをするというのは、普遍性を見出しやすくするためのコードに自分自身がなるということだ。そのためには自分自身が普遍性を持ち、何にも寄りかからず独立しなければならない。俺は表題のヤクザ、寺山修司の形容するヤクザとはそういう意味であると思う。

猫とミカンと掘りごたつ。

父の実家には掘りごたつがある。そして今日は従姉妹一家が飼っている猫を連れてきた。それをみてミカンを持ってくる祖母。こうして暖かく家庭的に過ごすのは、昔から好きだった。今でもとても気楽な気持ちになる。でも最近、こういう平和な日常ではない場所を求める気持ちが、どんどん強くなっている。猫と戯れ、ミカンを剥いて、掘りごたつで温まる時間よりも、人と口論し、ブログを投稿して、何か作品に没頭している時間のほうが、楽しいのだ。それをしていない時間にどんどん不満が溜まっていくのだ。気付かぬうちに周囲の風景は殺伐とした荒野になったけれど、そのほうが夢のように時間が過ぎていくのだ。最近、突風のように時間が流れ、その瞬間瞬間に速さと密度を感じる。たぶんその感覚はどんどん強くなっていくだろう。願わくば更なる速さと密度を求め続ける強靭な肉体と精神でありますように。

一人遊び。

目が覚めて何もせず、布団の中でインターネット。ひたすら、映画とか一般システム理論とか調べる。真理を見つけたいと思った時、どうやら世界の外を探すのではなく、世界全体に目を向けなければならないと、二十世紀の初頭に人類は気付いた。同じころ、映像が発明され、総合芸術としての映画が世界全体を映し始めた。今ではセックスもバイオレンスもナンセンスも、あるいは移り変わる日常、アブストラクトな現実も、何もかもが映されている。インターネットの一部では風景のライブカメラを見ることで時間を消費する人たちが居る。延々と続くデータのインプットとアウトプット、反復される細分と統合、それをする作業機械のように俺たちは生きていくのか。もはや俺はそれで良いとも思う。何かを生み出すことだけが人間的要素だとしても、動物でいいではないか。人類がたどり着いた果てがここなのだ。これが真理だったのだ。それでいいではないか。最後は動物にかえるのだ。

そう思って時計を見たら昼だった。
午後から出かけようと思った。

AdSenseひどい。

googleがページをクロールして、勝手に広告を置いてくれるAdSenseを導入してみた。強迫性障害を治したい人と目の疲れを感じる人はクリックしてみてください。いや、そんな人、来ないでしょ。強いて言うなら俺がクリックすればいいのか。しかし自分でクリックすると契約違反になるしなぁ。もうちょっと前向きな広告が出るように規則正しい生活を心がけよう。なるほど、そういう機能だったのか。

肝臓の調子が悪い。

昨日の夜、母の実家で酒を飲んだら全身に赤い斑点が出て、記憶もあまりなくようやく実家に帰って、倒れこむようにして布団にもぐりこんだ。起きてみたら枕元のノートパソコンが起動していて、ブログが更新されていた。まあこんなこともある。幸い二日酔いはないけれど、なんだか体全体が軋んでいる。相変わらず目も疲れているようだ。視点がなかなか定まらない。頭痛もある。咳もする。この際、少し養生して調子を戻してしまったほうがいいと思う。

2009年1月2日金曜日

大げさな人生を、生きてくつもりかい。

人の生き死には、大切な問題だ。俺の生き死には、瑣末な問題さ。みんな知ってるだろう。世界ではどんどん命が失われてるんだ。そのくせみんな命は大切で、運命から逃れようとする。なんも正しくねぇ、そんなことは。俺は生まれながらに死ぬ運命を抱えてる。向き合えよ、その事実と。あくせく毎日をやり過ごして、まるでそんなこと忘れちまう。それでいいのかい。それが生きるってことか。それなら俺なんかとっくの昔に生きたよ。まだ未練はある。でもそれとこれとは別問題だ。みんな死ぬ。だからって見ないのは悲しすぎるじゃねぇか。それだけだ、俺の言いてぇことはよ。

俺が死なない理由。

それはこの世に残る未練があるからに他ならない。寺山修司が言った「さよならだけが人生だ」と。俺はさよならする。社会に人にこの世に。さよならしたら後は死ぬだけだ。未練を残さぬために人はさよならする。酔いどれ詩人の言うことにゃ、生きる死ぬなど知ることか、営々と続く今日におさらばするかしないかさ。うまい酒を飲んで気分がいい。俺は今日眠る。自失する。それが全てだ。他に何もない。それを知るために皆、生きているのだ。無念と仲違いせず。生きていくのだ。

ちょっと弄って遊んでみた。

しかしやっぱりこのブログという奴はすごいものである。色々とカスタマイズしたり自己紹介を考えたりしていたら時間があっという間に過ぎていた。表出の欲望も満たされてカタルシスすら感じる。しかしここで得たカタルシスだけで満足していたらまずい訳だ。いやはや。

そういえば。

結局、初夢は見なかった。寝ている間に残った事は何も無かった。今年初の大酒を飲んで沈むように眠った。起きたら酒を飲んだ翌日に感じるあの口の乾きがひどかった。どうやら久し振りに飲んだのでよく廻ったらしい。今年は禁欲的な瞬間とそうでない瞬間の波を作ろうと思っているので、またしばらく飲まないと思う。正月だから付き合いでいただくことはあるだろうが。

潔癖とかそんな。

現代まで人間は気持ちよいものを延々と求め続けてきたという話がある。エネルギー革命も新しい芸術も小難しい学問も、どれもが何かをすっきりさせるために漸進してきたという話がある。そして現代に到った時、一つの大きな病が残された。それが潔癖である。我々は目に見えないものに囲まれて生活している。別に怖い話でもなんでもない、雑菌とかそういう話だ。そういう物ははっきりしない、すっきりしない。そうするとそういう物に怯えるようになる。そうして脅迫的に逃げまくる事になる。潔癖はその最たる例だ。潔癖が進行するとセックスを拒否するようになるらしい。それは人間の汚い部分だという訳だ。なるほど、そりゃ綺麗とは言わないが、それは滅亡への階段の第一歩だ。そして今まで物事をすっきりさせていたものたちが、きしみだしたり、あるいは反転したりしている。最近、岡本太郎が特集されているので、彼の言葉を借りるならば「今日の芸術は、うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」そういうことだと、俺は思う。

目が痛い。

最近、目を酷使しすぎているのか眼球の上というか眉毛の下というか、そのあたりが痛い。寝て起きると良くなっていると思いきや、三時間ほど活動するとまた痛くなってくる。一度マッサージでも受けたほうがいいのだろうか。酷くなると頭痛にまで発展しそうなので、しばらく気をつけて目を休ませようと思う。

ライフワーク。

表現者とは表現をライフワークにしている人だと俺は考えている。ライフワークで稼いでいる幸運な人も居るが、そうではない人もいっぱいいる。そういうものだと思っている。芸術をやりたいと思ってそういった大学に入る、それで課題を出されて愚痴をこぼしながらそいつを仕上げる、4年ぐらいそれを繰り返して大学を卒業しデザイン事務所に就職する。そういう奴らは断じて表現者ではない。それは絵の描けるサラリーマンであり、自分のやりたい事をやっている人ではない。もちろんそれはそれで立派な事だとは思うが。ある種の社会からの脱出が必要なのだと思う。趣味で何かをする人たちは金なり時間なりで社会からの脱出を買っているのだ。それはライフワークである。俺はそれでは満足出来ないが。俺の場合、脱出する前に社会からはぐれてしまった。だから満足できないというより生きていけないのかもしれない。

2009年1月1日木曜日

現代詩唯一の生き残り。

文化は共通前提の崩壊と共にそれを理解するものと理解しないものとの間で亀裂を深めてきた。尖鋭的なわかりにくい表現はある程度の共通前提を共有した人々、つまりそれについて「お勉強」した人々にしか通用せず、外部に訴える力を失ってしまった。たとえその人物が詩壇での有名人であってもそれはただの「詩の世界の」有名人であり、それを超えるためにはその人のパワーが詩の世界では収まりきらないという要素が必要だった。俺は90年代にJ-POPが馬鹿売れした大きな要因に実はそれまで詩人になっていた人材の音楽への流出が大きな要因としてあったのではないかと思っている。ライブ的な、収まらないパワーを見せ付けられる要素を持ち、なおかつ詩に最も近かったのが音楽で、それまで虐げられてきた詩へのパワーが音楽の方向へ向かったのではないかと思うのだ。

さて、しかし、それでもなお音楽や他の分野に流れず詩の世界にパワーを注ぎ込んだ人物が居た。そして彼は現代詩唯一の生き残りだと俺は思っている。彼の名は三代目魚武濱田成夫。俺のつたない言葉でどんなに表現しようともほとんど何も伝わらないと思うので、googleなり本屋なりで調べてみてください。一つだけいえることは、これから先、表現者に必要なのは何を差し置いてもパワーであり、少なくともその一点において彼は特筆すべき人物である、ということです。

毎年間違える。

さっきメールが来て初夢は今夜見る夢だと教えてもらった。どうやらこのブログを読んで教えてくれたらしい。ありがたいことです。んで言われてから思い出したんだけど去年もこんな間違いをした気がする。そして同じようなことで不思議だと思った気がする。

初夢ってすごいぼんやりとしてない?

いや、一日の夜と言葉にすれば、それは紛れもなく一年の最初の日の夜で、その時に見るんだからそれを初夢って言って何がおかしい。といわれればそうなのだが、どうにもなんだかしっくりこない。紅白歌合戦が今年で60回ということは少なくとも60年前から大晦日は夜更かしをする習慣があったのではないかと思うのだが、そうした場合どう考えても除夜の鐘を聞いて、蕎麦を手繰って、眠るのは日付が変わってあけましておめでたくなってからである。ってことは一年で最初に眠るのはそこなんだからそれを初夢といったほうが現実的なんじゃないか?

なんてことをつらつら考えながら今年一年の飛躍を願って氏神様に初詣に行ってきました。

名作引用2

真夜中のサイクリング 岡村靖幸
ジャンパーの袖にしがみつけよ 命懸けの恋が世の中を救うよ
缶ジュース振ると ときめくから 今も僕の胸の中の奥 ずっと
シャッターがガチャガチャと軋み泣いてる 駅裏の激しく新しいキスで
なんだって僕らは できるのなら 真夜中のサイクリングにでも 行こうよ
万遍なく出来るだけ祈るよ 普段の僕には見つけられない心
あなたに見つめられて偉く張り切っちゃう どんな時にでも
五連速式の軽快さ 誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が 負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今 広く高く深く 新しいスマイルで
今晩の月よどうか照らさないで 心の中が全部読まれちゃいそうさ
閉店セールで 買い物するより 夜のデパート そっと屋上に行こうよ
どきどきするべきだぜ 歴史上の史実の様に
そう無難で杜撰じゃ せっかくの物語で
自ら脇役に志願してるようなもんじゃん 知らない間に
五連速式の軽快さ 誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が 負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今 広く高く深く 新しいスタイルで
家庭のサービスなんかで 無邪気にはしゃぐ子供の様に
叫んで泣いてたんだね でもBabyいいじゃん もう
五連速式の軽快さ 誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が 負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今 広く高く深く 新しいスタイルで

SIONに続きJ-POPから名作をもう一つ。この岡村靖幸というシンガーソングライターも一般的なJ-POPとは違った手触りを持っている。この二人に共通して言えることはどちらも社会のはぐれ者であることと、声が奇妙であることだ。SIONは小児麻痺をわずらっていたことが根強く社会と自分との間に壁を作っている。いっぽうで岡村靖幸は帰国子女であることによるコミュニケーション不全を経験し、ついには覚醒剤で本当に壁に入ってしまった。それらを踏まえて曲を聴いたり詩を読んだりすると一段と味わい深くなり、声にまでその過去やコンプレックスが表れているかのように感じられるから不思議だ。俺はこういう影のある人物や、それらが生み出すものが好きなんだと思う。

寝て、起きる。

初夢というものを俺はほとんど見たことがない。今年も見なかった。

しかし、起きてすぐこうして文を書いていて思う。自己表現の敷居は極端に低くなった。何か伝えたいメッセージが強固になくても、こうして日々ブログを更新していれば、どこか何かを伝えた満足感がある。その気持ちはとてもよく理解できる。気分は一億総表現者である。昨年、俺はこのように自己表現の敷居が低くなった現代において、芸術の定義を変えるべきだと主張した。表現をすること自体が芸術なのではなく、表現をする場が芸術であり、その上で芸術的表現が行われるのだと主張した。その考えは当時、言葉遊びだと一笑に付されることが多かったが、主張を除けば的確な現状把握だったと思っている。その把握をもとに今年はよりいっそう面白い活動ができるように邁進したい。

名作引用1

ここまでおいで SION
泣いてる 君のすぐそばで ふさいでる 俺のすぐそばで
乾いた風が転がっている しけった人や街中を
ここまでおいでと 明るい諦めと 開き直る力を ちらつかせてる
悲しいのが好きなほど人に囲まれてないから ごきげんな奴が好き
テレビのうえ猫があくびしてる ギリギリのつもりの俺の上で
ここまでおいでと それがどうしたんだと そんなに力むなよ あくびをしてる
どうにもならないからどうにかやれそうだぜ ごきげんな奴が好き
泣いてる 君のすぐそばで ふさいでる 俺のすぐそばで
ここまでおいでと どっちでもいいけど もったいないぜ 声が聞こえる
悲しいのが好きなほど人に囲まれてないから ごきげんな奴が好き
どうにもならないからどうにかやれそうだぜ ごきげんな奴が好き
泣いてる 君のすぐそばで ふさいでる 俺のすぐそばで
泣いてる 君のすぐそばで ふさいでる 俺のすぐそばで
泣いてる 君のすぐそばで ふさいでる 俺のすぐそばで

J-POPはそのほとんどの要素において手垢のついた表現の順列組み合わせで成り立っていて、それは特に詩において顕著である。しかし時々、表現として成り立つ強度をもったものも埋もれている。そしてこのSIONというシンガーソングライターはそういった作品を比較的多く生み出している表現者の一人だと思う。この「ここまでおいで」という曲の歌詞は村上春樹的な厭世観で私の心に迫ってくる。またこの曲をOPに使用したNieA_7というアニメも似た感覚で何か言葉に出来ぬ強度をもって迫ってくることを併記しておこう。

物悲しいリリシズム。

単に喜怒哀楽が表現される文というものは、あまり好きではない。中に要素がいくつも詰まっていて、それら全体を見渡したときに、何かが浮き上がってくるような文が好きだ。そしてそんな文の中でも「物悲しいリリシズム」を感じる文が好きだ。この「物悲しいリリシズム」という表現は、瀬戸内寂聴が高橋源一郎の「すばらしい日本の戦争」という小説を評したときに使った表現の受け売りである。しかしこの表現は現代社会にかろうじて残るリリシズムの姿をとてもうまく掴んでいると思う。

年も明けた。

遅ればせながらブログをやってみようと思う。
今年一年、2009年に自分がどう変わっていくのか。
日記では不自由すぎるし、メモでは自由すぎる。