2009年1月9日金曜日

名作引用3

さようなら、ギャングたち 高橋源一郎 一部引用

私たちは、ギャングであることを自由に選択しました。その選択は義務でも強制でもありませんでした。もし再び、私たちに選択の機会が与えられれば、私たちは喜んでギャングであることを選ぶでしょう。

私たちは、ギャングであることを特権であると見なしたり、またギャングであることに卑屈になったりもしませんでした。

私たちは、ギャングであることは相対的なものだと考えました。私たちは、私たちの生存しているこの世界との関係の中でのみギャングであり、この世界との関係の変化だけが私たちをギャング以外の存在に変化させるものと考えました。

私たちは、一般にギャング的であると信じられている恰好・様式に従いました。私たちは、人々を当惑させるような行動をとったり、珍奇な言辞を弄することを避けましたし、全く新しいギャングになろうとも考えませんでした。それでも、時として私たちの行為が『ギャングを逸脱した、珍無類な』ものと受けとられることがありましたが、誤解を招くことを恐れて私たちのやり方を無理にねじまげるようなことは決してしませんでした。
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私たちは、人を殺し、金(マネー)をうばうことが、創造や建設につながるとは主張しませんでした。私たちはただのギャングであって、予言者ではないからです。
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私たちは、この世界について私たちがもっともよく理解しているとは主張しませんでした。私たちは、行動の基準をいかなる意味においても正当性(ジャスティス)におこうとはしませんでした。私たちは、私たちの視野もまた視野である限り、さけがたい限界をもつものと考えましたが、同時にそのことが私たちの手を縛ることのないように心がけました。私たちが、無限の相対性の連鎖(リンク)に一つとしての視野しかもてないとしても、私たちは私たちの生存の与件を呪詛するよりも、喜んで受け入れるべきだと考えました。
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私たちは、私たちのまねをする人たちが現れるようになっても、そのことによって有頂天になったり、気もそぞろになったりしませんでしたし、私たちのまねをする人たちにお説教めいたことを言う必要も感じませんでした。私たちのまねをすることがどのような結果を招くのかは、その人たち自身が勝手に知ればいいことだと、私たちは考えたからです。
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私たちは金(マネー)の問題については、ある意味では悲観的な立場をとっていました。この世界に於ては、金(マネー)の本質は仮象(シャイン)だからです。金(マネー)は、私たちが相対的な存在であるのと同じように相対的です。私たちが奪う金(マネー)の総額は、前もって計上される『雑損控除』の上限をこえることはありません。別の表現をとるなら、私たちは会計上では、強盗を働いていないのと全く同じなのです。『強盗』は投入(インプット)=産出分析(アウトプット・アナリシス)の中の一つの情報(プログラム)、仮象(シャイン)の中の仮象(シャイン)にすぎないのです。
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私たちの行動の中には、たしかに不合理な夢が混じっていますが、私たちはそれをやみくもに排除しようとは思いませんでした。何故なら、それらも私たちギャングにとって不可欠の属性だからです。私たちは、蒸留水であろうとは、一度も思いませんでした。
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私たちが明証的であると考えていることが、他の人たちにとってはそうではなく、又逆に他の人たちが明証的であると信じていることが私たちにはそうではない、といったことがたえず起こりました。私たちはそれを喜ばしい状態であると考えました。私たちは、私たちを支持する意見よりも私たちに反対する意見を好みました。
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私たちは、私たちの行動から何らかの抽象的な観念を、ひきだそうとは思いませんでした。私たちは、行動から観念をひきだすことにも、反対に観念から行動を導きだすことにも警戒心をもちつづけました。私たちは、私たちがだれでももっている知恵、そしてあまりに普遍的なために忘れかけている知恵から、直接に私たちの行動をひきだすことにしたのです。
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私たちは、行動を終えた後、夜、机にむかっている時めまいがするほどの不安を感じます。それは私たちが、毎日少しずつこの世界から遠ざかってゆくという不安です。それは私たちが、私たちの手でなしとげたことと、私たちがイマージュのうちに育んでいるものは全く正反対の姿をしているという不安です。そんな時私たちは、逃げだしたい、何も考えたくないと叫ぶ私たちの心に、その不安から目をそらしてはならないと命じました。目を両手でおおってはマシンガンをもつことは出来ません。それはギャングであることを放棄することなのです。

高橋源一郎という作家の物悲しいリリシズムの源泉が、最も露骨に表れている文章である。著者略歴からもう少し引用すると「1969年4月 某国立大学に入学したが行ってみると学校は存在していなかった」という訳だ。俺はこの文章を見るたびに悲しい気持ちになる。この間、ジョージ・オーウェルの動物農場を見たときも同じ悲しみを感じた。人は誰も間違っていない。ただ現実としてみたときに、そこには不幸が存在している。そういう不条理さが俺の心を悲しくさせる。そして誰もがこの不条理さに敏感であれば、悲しみはなくなると信じている。俺の表現の目的はもしかするとそれだけなのかもしれない。

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