2009年1月18日日曜日

一人笑い。

これからの時代においては「自分が面白いと思う」ことと「面白いとされる」ことは明確に区別されなければならない。前者はいわゆる「一人笑い」という奴で、オタクがコミケに並びながらニヤニヤする、お笑い芸人が自分のボケでニヤニヤする、おじいちゃんが自分の盆栽を見てニヤニヤする、などを指す。後者はいわゆる娯楽という奴で、映画や演劇でのコミカルな要素、お笑い芸人のウケるネタ、身内で盛り上がる話、その他もろもろの「自覚的な面白さの追求」を指す。俺は現代はコミュニケーションが孤立していく時代だと思う。インターネットや様々なメディアによってコミュニケーションは結果的に孤立したと考える。そういう時代には必然的に皆「一人笑い」を始める。自分だけの密やかな楽しみというものはいつの時代も存在するが、それは現代になってさらに増えつつあるのが現状なのだと思う。すると「一人笑い」の商品価値はとめどなく下降する。昔はきちんと商品として認められたものがどんどん価値を下げて商品にならなく、つまり趣味として扱われてしまう。あるいは大衆文化として認められていたものがサブカルチャーにカテゴライズされてしまう。それのあおりを最も受けているのが芸術や芸能の分野だと思う。たとえば老後にダンスを習い始める、あるいはなんとなく小説を書く、あげくに趣味としてお笑い芸人を目指す、そういう人たちはいくらでも存在している。それは仕方がないことだ。そういったものをやるときはストイックでなければならない、なんてことはなくなってしまったのだから。するとそういったものに商品価値を持たせるためにはそれらの純粋な部分以外で何か価値がなければならない。それがエンターテイメント性であり、バランスであると俺は考える。そして商品価値が存在しなくてもいいというなら、周囲に評価を求めるべきではない。だってそれには客観的な価値がないんだから。そして俺は周囲にどれだけ評価を求める、賞賛を求めるのかということは、常に自覚していなければならないと考えている。つまり、自分がどれだけ世間で目立ちたいのかを自覚することが必要なのだ。そして、そのために戦略を考えるのだ。アンディ・ウォーホルは「未来には誰でも十五分間は世界的な有名人になれるだろう」と言ったが、これを基準に言い換えるならば「自分は何分間世界的な有名人になりたいのだろう」と考えることが必要なのだ。そしてそのためにはどうするべきかを考え、行動することがそれの実現につながるのである。これは別に名誉欲について言っているわけではない。有名人になるということは、商品価値を持つということだ。この論理からは逃れられない。俺が「一人笑い」を価値ある商品にしたいと考えるならば、避けては通れない道なのだ。俺は自分に価値がある考えている。俺が書いた小説には価値があると考えている。だからこそ価値がないと言う人たちが認めざるを得ない価値を付与することが必要だと考える。その方法は権威の力を借りることかもしれないし、あるいは大衆の力を借りることかもしれない。いずれにせよ「一人笑い」を認めて欲しいと考えるならば、それに見合うだけのものを身に着けなければならない。周囲に自分の「一人笑い」が認められないことがあったらまずは自分を省みなくてはならない。それ自体を省みる必要はない。表現はどこまでいっても所詮は「一人笑い」である。自分の小説が周囲に酷評されたとしたら、それはその小説が悪いのではなく自分が悪いのだ。自分のダンスが周囲にダサイと言われたとしたら、それはそのダンスが悪いのではなく自分が悪いのだ。自分のネタが周囲に受けなかったとしたら、それはそのネタが悪いのではなく自分が悪いのだ。周囲や作品を責めるべきではない。それはどちらに対しても失礼である。

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