2009年1月24日土曜日

自作引用2

予備校生の時に書きためていた文章の中から一部。
多少の加筆修正および削除を加えましたが、まだ若いのでパッションが先走っています。

『滑降コミュニケーション』
世間では馴れ合いが蔓延している。情報化社会によってそれは改善するどころか促進された。本来コミュニケーションというものは最初から円滑ではありえない。それは人間の本質がどれをとっても同じであることなどありえないからだ。
コミュニケーションとはその人間の本質という異なる形の歯車を噛み合うように削る作業に似ている。それぞれの歯車は最初、まったく噛み合わないことも多い。しかし削っていくとふいに噛み合う瞬間がある。そうしたらその部分を他にも応用していけばよいからそれほど難しくなく全体を噛み合わせることができる。そして一度噛み合った歯車は話題の転換とともに取り外される。人間は木やプラスティックではないからもう一度自分という形の歯車を取り出すことは容易である。そうしてまたコミュニケーションという作業が再開されるのだ。
馴れ合いはいわば最初からこの歯車にスポンジを巻く行為に等しい。よほど歪んだ円形でなければぎこちなくとも歯車は回転する。表面上はコミュニケーションとして成立する。しかし内部にどのような突起があってもスポンジが取れるまではわからない。それは本質的にはその人間のことを何も知らないということに等しい。
「空気を読む」という言葉がある。今現在この言葉を使っている人間はその言葉が「スポンジを巻け」と言っている可能性がある点を注意すべきだ。もちろん本当に「空気を読め」ていないという場合も存在する。それは誰かの計算、もしくはあるべき状況を著しく害する場合だ。そういう場合の「空気を読め」は逆に「歯車を削れ」となる。思うに最近の「空気を読め」は「スポンジを巻け」の場合が多すぎるのだ。これはもちろん私の周りだけを指している訳ではない。むしろ私はそのようなコミュニティーに赴こうとは思わない。世間一般の風潮としての話だ。
「一線を越える」という言葉がある。この言葉は否定的な言葉として使われがちだが、本来否定的である要素はどこにもない。辞書的定義によれば「現状を保つ限界を超えた行動をする」ということだが、これは現状を保つべきであるという前提の話でない限り否定的にはなりえない。私はいつでも一線を越える人間でいるつもりだ。
一線を越える人間は確かに存在する。一線を越える人間と一線を越えない人間は私の中では厳然と別けられているし、その分類は今後あまり大きくは変化しないだろう。もちろんこれは単なる私の主観に過ぎない。しかし私はこの主観を確信している。そしてその主観によって別けられた人たちの中からは三つの共通点を見出すことができた。一つ目はどの思想に対しても懐疑的であること。二つ目は「スポンジを巻け」とは決して言わないこと。三つ目は酒を飲むと議論を始めること。この三つである。
教師は一線を越える人間以外には向かない職業である。それは私の見出した共通点が正しいと仮定するなら理解されることだと思う。誰が好き好んで盲目的に追従する思想を持ち、スポンジを巻かせ、議論を好まない教育者に教育されたいと思うだろうか?もちろん一線を越える人間にも向かない者はいるだろう。しかしそういった人間の大半は「一線を越えてしまった」者たちなのだろう。彼らは本質的に一線を越えている訳ではなく、環境、知能、性別、人格、個性、そういったものとの軋轢から「一線を越えざるをえなかった」のだ。
芸術家は一線を越えた人間以外には不可能な職業である。盲目的に追従する思想を持ち、スポンジを巻かせ、議論を嫌う芸術家などナンセンスだ。「私には分からない」という言葉を免罪符にあたかも自分は門外漢であるようなそぶりを続ける人間にどれほどの芸術が創れるだろう?もしかしたらいま分からないといったものが次の芸術となるかもしれないのだ。政治が、宗教が、科学が芸術になりえないなどと誰が言えるだろう?理系?文系?じゃあ芸術家は芸術系の知識のみを習得して思うがままに創作活動を繰り広げればよいのか?そんなことはありえない。それでは単なるオナニズムである。一山いくらで売られるなんということはない作品を作りたいのだったらそうすればよい。
そしてオナニズムの蔓延した状態で発せられる言葉、それこそが「スポンジを巻け」という意味での「空気を読め」という言葉である。それぞれがそれぞれのスポンジを巻いた歯車、表面上円滑なコミュニケーションを披露している中で、本質に対して切り込もうとする剥き出しの歯車は確かに誰かの計算、もしくはあるべき状況を著しく害するかもしれない。しかしそれは本質的なコミュニケーションを求める真っ当な人間からすればあたりまえの行為なのだ。このことに気づかずオナニズムを続けることが真っ当であると開き直る人間が居たら、それはオナニズムの蔓延が常態化してしまった人間である。
人間が何かを表現するとき、大きく別けて二つの方法がある。一つ目はコップに溜まっていった水が溢れ出る方法で、二つ目がコップに溜まった水で何かを創造する方法である。具体的な言葉で方法を説明するとすればコップに溜まった水が溢れ出る方は普通、感情として処理され、コップの水で何かを創造するほうは普通、感性として処理される。これらはどちらの方法もバランスよく行っているのが真っ当な状態で、片方に傾倒しすぎるのはどちらにせよ問題である。
オナニズムとはこの溢れ出る、感情を開放し、感性はあまり開かない状態である。もちろん感性もある程度は開かれているが、感情の開放が優先されるのだ。このような状態が持続することによって人間はどんどん感情面に頼るようになる。本来ならば感情も感性もどちらも育っていくものであるはずが感性の成長が遅くなってしまうのだ。すると感情的な面が行動に現れやすくなる。もちろんそれをすばらしい方向に向けることも不可能ではないが、感性の辞書的定義にも「理性・意思によって制御されるべき感覚的欲望」とあるように、感性は感情に比べてコントロールが容易なのだ。それでは逆に感情を抑え、感性を開放するとどうなるのか?これではこんどは感情が育たない。感性は感情に比べてコントロールは容易であるが、そのコントロールは一定量以下のものである。あるとき許容量を超えた水はコントロールしきれなくなった感覚を抱えて情緒不安定に陥るのだ。つまりどちらにせよ偏りはコントロール不可能な状況を作り出すことになる。
このような状況から見て、現状におけるオナニズムの蔓延は危険な状態を招くことが目に見えている。では我々はどうすべきなのか?
(未完)

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