2009年1月16日金曜日

それでも自分が正しいと。

俺は自分が正しいことなんかひとつもないと思っている。間違えだらけで生きている、挙句の果てには生まれてきたことが間違えなんじゃないかと本気で思っている。そんな俺だが、やっぱり人の欠点というのは岡目八目、よく見えるわけで、そういうときに相手が聞いてくれないのはやはりさびしいものである。自分が間違ったことをしでかしたときに、それでも相手に少し物申したいことがあって、自分の話をとりあえず反省してから言うことは、それほど良くないことなのだろうか。というよりも、そういうことを言われたとき、自分は相手よりも正しいから、相手の話を聞かない権利があるとばかりに対応するのはよろしくないのではないか。俺は基本的にこの世は金銭か寛容でまわっていると思っているのだが、俺は金銭に執着がないというよりは、金銭よりも寛容を失うことのほうが嫌なので、寛容を選択してしまう。そしてそういった傾向のものと楽しく暮らしていこうと考えていたのだが、どうしてなかなか様々な要因で寛容というものは失われてゆくのだなと思って悲しくなった次第である。信頼は幻想であるという話をしたが、その幻想のために人は金銭か寛容かを選択するのである。幻想がなくなったときに息が詰まるのと同様に、金銭を選べない人間に寛容が失われたときに息が詰まるのは、あたりまえの道理である。そして呼吸困難に陥った後に気づいても、深い爪痕を残して、あるいは重い後遺症を残して、生きるか死ぬかの博打を乗り切らなければならぬ。そんなのは嫌だ。なぜ寛容になることができないのか。俺自身にももちろん常に問い詰めるべきことだが、周囲にそれを問い詰めたときの、そしてそれに対する冷ややかな視線の、なんと虚しいことか。感情が漏れ聞こえてくる人ほど、寛容さは失われている。以前も書いたが、感情を吐露して同情を誘うのはみっともないことだ。それに気づいてから、どういう時に感情を吐露すべきなのかを見極めるのが、感情のコントロール、感情を含めた自己の客観というものではないかと思う。少なくとも俺はそう思う。だからその道に進むだけのことである。

0 件のコメント:

コメントを投稿