2009年2月26日木曜日

晴耕雨読。

昔からあまりやりたいことがなかった。今でもあまりない。それでもとにかく何かをやり続けようとしてきた。どうやらそれが世間では普通みたいだからである。アイデンティティの問題からはとっくに自由になっていると思う。俺は俺であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。だから何かをやってそれにアイデンティファイするつもりはない。それでもなお何かを続けようと思う。意味の問題から開放されても、意味を作るという、意味のない行為が、どうなっていくのだろうかということに、興味ではなく、惰性の快感を得ているのではないかと思う。本来なら俺は晴耕雨読を志す人間だ。しかしそのように生まれつかなかった。環境的な現実と、精神的な理想の軋轢が、今の奇妙な状態を作り出した。そしてその奇妙さを楽しもうと言う前向きな姿勢を持とうとした成れの果てであるように思う。軋轢に気づくのが遅かったのかもしれない。気づくのが早ければもっと極端な方向になっていたのだろうと思う。しかし極端な方向に行くほど、軋轢を感じられる敏感さを持ち合わせていなかったのだ。中庸を延々に走り抜けた結果最後に会ったのはやはり中庸だった。何にも妥協しなかった結果、全てを妥協する事に行き着いた。晴耕雨読。晴れの日は耕し、雨の日は読むのだ。俺は全てを妥協する。しかしそれに関してだけは妥協しないつもりだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿