2009年12月13日日曜日

実存アーキテクチャ

新しい何かを生み出したいと考えるとき、刹那、私は考える
考えたものを言葉にしてそれをひらりと具現化させる

しかし困ったのはここからだ
言葉が死んでしまう、すぐに死んでしまう、いつも死んでしまう

私は死んだ言葉が嫌いだ

死んだ言葉で埋め尽くされた文章は剥製になるまで見たくない

剥製になった言葉は私の中ですでに過去の遺産として取り扱える
それならばまだ、見ることができる
しかしそれには長い時間がかかる

ブログに文学は勝つことができない
なぜならブログには更新機能がついているからだ

これがアーキテクチャにコンテンツが負ける瞬間である

今まで何度も自分の文章を殺してきた
結局、生かすことはできなかった

自分の文章が死なない程度すら強力な魂を与えることはできなかった
それだけの力さえ、自分にはないのだ

これはいつも強烈な絶望となって私を追い詰める
私には、文章を生かす、才能がないのだ

いつもそんなことを考える
考えながらも、書かないのはつらいから、書いてしまう
断筆はできない

消費されるものとしての文学
剥製でない文学

それらはコンテンツとして金を生むだろう
しかしそれにいったい何の意味があるっていうんだ

でもそうなると、私たちは何も残すことができない
ブログに書かれた文章と同じ場所に立たなくてはならない

アーキテクトにどうコミットメントするか
結局のところ今の純文学の方向性はこう規定される

虚構の作家を捏造して物語を嘘とする作家
ケータイ小説を忠実に再現して批評的に徹する作家
ライトノベル出身という出自で既存のアーキテクトから脱出する作家

そんなにアーキテクトにコミットメントしたいのか
したいのである

自分の中にその感情があることは否定できない
それはただただ悲しいことだ

文学なんて、文字通り、ひとかけらもなくなってしまったのだ
そんな時代に私たちは生きている

ダヴィンチのように狡猾になるしかない
解釈されるのをひたすら待ち続けるコードを隠すしかない

それが現代のあらゆる作家が生き残る唯一の処世術である

でもそれは悲しいことだ
なぜみんなそんなにも無関心なのだろう

私は歩み寄る人間が好きだ
どんな存在にも歩み寄る人間が好きだ

一度歩み寄ってから背を向けることは難しい
だからこそ人は歩み寄ることを怖がるのだろう

仲間は楽しい
しかし楽しいだけではなんにもならない

ラストモダンだ
近代はもう、まさに、終わろうとしている

だから次の段階に移動するために、歩み寄らなければならない
ちょっと苦しくても、歩み寄らなければならない

その意識を常に持つことは、とてもとても疲れることだ
だから、ホームは、あっていい

自分の居場所はあっていい
それは最優先に確保すべきものだ

それは愛する人との平穏な家庭でもいいし
気の会う仲間との楽しい空間でもいい

そしてそれらを確保したら、疲れるために、外に出よう
今まで知らなかった人たちと歩み寄って話してみよう

自分が最も興味のない人種に話しかける瞬間
それはあなたの視点が無限に広がる第一歩だ

世界に余るところはない
だから世界全体を私のものとして手に入れよう

もともと私のものは存在しない
しかしだからこそ全て私のものになる可能性があるのだ

その可能性を追い求めよう
そうすればいつか本当にあらゆることが手に入るはずだ

それはきっと楽しいことだろう
たぶんどんなことよりも楽しいことだろう

実存とアーキテクチャ
その隙間を飛び越えよう

まずは、何か、しませんか?

PS.
最近比較的、新しいことをできる程度に時間が空いています
なんでもいいので誘ってください
まずは話しましょう

ekasake@gmail.comまでご連絡ください
どなたでもお待ちしております

ではでは

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