2009年8月7日金曜日

真夜中のサイクリング

すっきりしないことをまっとうに歌いあげること。絵空事のようにさわやかな世界や、逆に演技にしか映らない悲観的で絶望的な世界に安住することなく、歌うこと。
岡村靖之 及び 真夜中のサイクリング について
國學院大學日本文化研究所 遠藤潤


真夜中のサイクリング 作詞作曲 岡村靖幸

ジャンパーの袖にしがみつけよ 命懸けの恋が世の中を救うよ
缶ジュース振るとときめくから 今も僕の胸の中の奥ずーっと

シャッターがガチャ×2と軋み泣いてる 駅裏の激しく新しいキスで
なんだって僕らはできるのなら 真夜中のサイクリングにでも行こうよ

万遍なく出来るだけ祈るよ 普段の僕には見つけられない心
あなたに見つめられて偉く張り切っちゃう どんな時にでも

5連速式の軽快さ誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今、広く高く深く 新しいスマイルで

今晩の月よどうか照らさないで 心の中が全部読まれちゃいそうさ
閉店セールで買い物するより 夜のデパートそっと屋上に行こうよ

どきどきするべきだぜ歴史上の史実の様に
そう、無難でずさんじゃせっかくの物語で
自ら脇役に志願してるようなもんじゃん 知らない間に

5連速式の軽快さ誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今、広く高く深く 新しいスタイルで

家族のサービスなんかで 無邪気にはしゃぐ子供の様に
叫んで泣いてたんだね でもBabyいいじゃん もう

5連速式の軽快さ誰かいつもマーガリン潰してる
ポテンシャル抜きで全快が負けん気の決心
ドメスティック気味な大空を今、広く高く深く 新しいスタイルで

自分のための3つの引用

不思議の国のアリス ルイスキャロル

「このあたりにはどんな人が住んでいるの?」
「あっちの方角には」と、猫は右の前足をくるっとまわした。
「帽子屋が住んでる。それからあっちの方角には」と、もう一方の前足をまわして、
「三月兎が住んでる。どっちか好きなほうの家へいってみるんだな。どっちも狂っているけどさ」
「でも狂っている人たちのところはいやです」アリスはきっぱりいった。
「なあに、そりゃ仕方ないさ」猫はいった。
「ここじゃ、みんな狂っているんだ。おれも狂っている。あんたも狂っている」
「どうしてあたしが狂っているってわかるの?」アリスはいった。
「そうに決まってる」猫はいった。
「でなけりゃ、ここへきたりはしなかったね」


僕はランチに出かける 間章

今生きつづけている人が何人いるだろうか?どの街もどの通りも世界じゅう生きている死人たちで満ち満ちている。本当のやさしさとも亡びともついに無縁の人たちで満ち満ちているのだ。
本当に生きつづけてゆくのは、単に生きていくことよりずっとむずかしい。だってちょっとでも気をぬけばもう<なしくずし>が待っているのだから。自らの地獄を直視し闘ってゆくものしか本当には生きてゆけないのだ。そして戦士には休息なんてありっこないし、ましてや永久革命者の悲哀なんてありっこない。
本当に挫折し、身を持ちくずしたことのないものにさびしさもやさしさもありっこないし、生きてゆくことの確かさなんてありっこない、だから僕は自信家 や自分がこれまで勝ちつづけてきたと思いこんでいる人間を軽蔑している。彼らこそもっとも大きな人生の落伍者なんだ。

僕はちょっとランチに出かける。
昔、僕の敬愛する人間にエリック・ドルフィーというサックス奏者がいた。彼は『Out to Lunch』というレコードを彼の早い晩年にレコーディングした。このエリック・ドルフィーから僕はとても多くのものと本当の闘いのひとつの場所と在り方を学んだ。彼こそ僕にとってはアナーキストだった。恐らくこの世にドルフィーのファンは五万といるだろうが、この男を本当に理解している人間はそのう ち一万人に一人いればいいだろう。
この冬に僕の評論集を出す話がある。ずっと今まで僕はそんなものを出したくないと思ってきた。でも今度は出そうと思っている。「ジャズの"死滅"へ向けて」(『ジャズ』および『ジャズ・マガジン』)の二年半の連載を経て、僕ははっきりと自分のひとつの季節を終えたと思うからだ。終ったものには墓標を立てなくてはならない。それはささやかなやさしさだ。

僕はランチに出かける。
それは闘いながら死んでいった者たちとの会食だ。
世界で一番強い酒でもさげてゆくか。多分それは水だろう。
きっと笑い声に満ちていて楽しいだろう。
だって地獄ほど楽しいところはまたとないのだから。やさしさのあるところには必ず亡びがある。そしてさらに言っておこう。亡びのない闘いはない。僕はその果てへこそ向かおうとしている。だがその前にちょっとランチに出かける。このランチには遅れるわけにはいかないのだ。


父と子 イワンツルゲーネフ
バザーロフが何者かと言うんですか?とアルカーヂイは薄笑いした。
じゃ、伯父さん、あの男が一体何者か、言いましょうか?
ああ、どうぞ。
あの男はニヒリストです。
え?とニコライ・ペトローヴィッチが聞き返した。
パーヴェル・ペトローヴィッチは、刃先にバターの固まりをつけたナイフを持ち上げたまま、動かなくなった。
あの男はニヒリストです。とアルカーヂイは繰り返した。
ニヒリスト。とニコライ・ペトローヴィッチは言った。それは、私の判断するところでは、ラテン語のnihilすなわち虚無から来ているようだな。するとその言葉は、つまり……その、なにものをも認めない人間を指すんだな?
なにものをも尊敬しない人間と言った方がいい。とパーヴェル・ペトローヴィッチは口を入れて、またバターの方へ取りかかった。
つまりすべてのものを批判的見地から見る人間です。とアルカーヂイが言った。
それは同じことじゃないか?とパーヴェル・ペトローヴィッチは尋ねた。
いえ、同じことじゃありません。ニヒリストというのは、いかなる権威の前にも屈しない人間です。周りからどんなに尊敬されている原理でも、それをそのまま信条として受け入れることはしないんです。

しかし今アルカーヂイ・ニコラーイチが話してくれたところによると、あなたはいかなる権威も認めないそうですが、これはどうしたわけです? あなたは権威というものを信じないのですか?
ええ、そんなものを認めてどうします?それに何を信じたらいいんです?何でも筋の通ったことを言われれば、それに同意します、それだけです。

バザーロフは言葉をひったくるようにして言った。人間というものはすべて自分で自分を教育しなくちゃいけない。たとえば、僕みたいなものさ……時代ということにしても、なぜ僕が時代に支配されなくてはならないんだい?時代の方でこそ、僕に支配されるべきだよ。だめだよ、君、それはみんな甘やかされているからだよ、中身がないってことだよ!それに男と女の間に、どんな神秘な関係があるというんだい?我々生理学者は、それがどういう関係か知っている。まあ君、目の解剖でもやってみたまえ、君の言う謎のような眼差しなてものが、どこから出てくるんだい? そんなことはみんなロマンティズムだ、戯言、腐敗、芸術だよ。

じゃあ、あなたのご意見では、一体何が必要なのです!あなたの話を聞いていると、我々は人類とその法則の外に置かれているようですな。とんでもない、歴史の論理が要求するのは……
そんな論理が何の役に立つんです? そんなもの、なくたって、やっていけますよ。
それはどういうわけだ?
どうもこうもありませんよ、あなただってお腹が空いているとき、パンの一切れを口に入れるのに、おそらく論理なんか必要とされないでしょう。我々にとって、そんな抽象論が、何の役に立つんです?
パーヴェル・ペトローヴィッチは両手をひとふりした。
そんなことを言われると、私はあなたという人間がわからなくなる。あなたはロシアの民衆を馬鹿にしている。わかりませんね、どうしてプリンシープルを、原則を認めないでいられるのか。あなたは何によって行動しているんですか?
伯父さん、前に言ったじゃありませんか、我々は権威を認めないんだって。とアルカーヂイが言葉をはさんだ。
我々は、有益だと認めたものによって行動するんです。とバザーロフは低い声で言った。今は否定が最も有益だから、それで我々は否定するんです。
何もかも?
何もかも。
なんですって?芸術や詩ばかりではなく……さらに……言うのも恐ろしいことだ……
何もかも。言い表し難い落ち着きをもって、バザーロフは繰り返した。
パーヴェル・ペトローヴィッチは彼を見つめた。こういうことは予期していなかったのである。アルカーヂイは満足のあまり顔を赤らめた。
しかし、失礼ですが。とニコライ・ペトローヴィッチが言い出した。あなたはすべてを否定している、いや、もっと精確に言えば、すべてを破壊している……しかし建設ということも必要でしょう。
それはもう我々の仕事じゃありません……まずはじめに、場所をきれいにしておかなくてはなりませんからね。
国民の多くがそれを要求しているんですよ。とアルカーヂイが面白く付け足した。我々はその要求を実行しなくてはならない。我々には個人的エゴイズムの満足に浸っている権利なんかはないんです。

さあ、芸術を殺しに行こう。

意味を求める人間は、何か行動を起こすために、動機を必要とする。
そして、何も行動を起こさないことは、死んでいるのと同じことだ。

俺はこの一年間、これから必要になるであろう、横断的な武器と客観的な視点を手に入れるために、生きていることをやめた。全ての価値をそこに見出して、行動原理とした。そして時は満ちた。そう思う。

さあ、芸術を殺しに行こう。

明治維新の時に外来種として日本に寄生した芸術を、先人たちはおっかなびっくり生かし続けてきた。その結果として現在、日本では息も絶え絶えな芸術にどうにかして餌を与えて生かしている。

さあ、芸術を殺しに行こう。

日本には真理などなかった。
はじめから必要なかったのだ。
私たちはそれに気づかなければならない。

さあ、芸術を殺しに行こう。

俺たちは実験し、感染し、傾倒し、笑いつくして今日に至った。
西洋かぶれとキチガイ沙汰だけがかろうじてそこに残された存在ならば、それはもはや必要ないし破壊する以外に救いは存在しない。

さあ、芸術を殺しに行こう。

作家をみよ。絵画をみよ。漫才をみよ。演劇をみよ。学問をみよ。音楽をみよ。彫刻をみよ。建築をみよ。写真をみよ。舞踏をみよ。
村上春樹を、村上隆を、あらびき団を、野田秀樹を、宮台真司を、岡村靖幸を、イサムノグチを、安藤忠雄を、篠山紀信を、上野隆博を、みよ。
西洋かぶれとキチガイ沙汰をしかと目に焼き付けよ。

さあ、芸術を殺しに行こう。

あるいは、俺は保守的なのかもしれない。
しかし真に革新的であるならば必要なのは更地だと気づくはずだ。
新しくそこに何かを創造するには綺麗な場所を用意しなければならない。

さあ、芸術を殺しに行こう。

必要なのは自身すらも保持できるかわからない徹底的な破壊である。
そんなことはお前の仕事じゃないと言われるかもしれない。
しかし俺はそうは思わない。まだまだ破壊が足りない。

インターネットとサブプライムローンだけでは足りないのだ。

さあ、芸術を殺しに行こう。

それが今、俺の仕事だ。

2009年7月8日水曜日

保険の不健全さ

保険と計画は紙一重である。
私たちは不確定な将来に対し大なり小なりみな計画を立てて生きる。
計画を立てて生きることは確かに有用である。
何かをしようと思ったとき、ある程度の計画を立てないと実行できないという事実は常に付きまとうからだ。

しかし計画を立てるということは可能性を削るということである。
計画のために必要な要素はあらかじめない物として取り扱われるからだ。
たとえば時間。

私たちは最初、1日24時間の時間を与えられる。
みな同じだ。
しかし時間に追い掛け回される人とそうでない人が居る。

時間に追い掛け回される人は計画的な人だ。
計画的な人にとって自分が何時に何をしているかは決められている。
逆に言えば無限の可能性からそれ以外の選択肢を削除している。

ここで一つ明言しよう。
私たちは可能性におびえている。
取りうる選択肢の多さにおびえている。

計画的であることは何を引き起こすのか?
予定は埋まりあなたの将来は可能性の代わりに安定を手に入れる。
しかし本質的に人は安定することはできない。
明日死んでしまう可能性を誰がゼロだと言い切れるだろう?
そしてここに不条理が生じる。

あなたは死ぬ可能性を考えて生命保険をかける。
死んでしまった後のことなんてあなた自身には関係がないのに。
もしかしたらあなたの愛する人には関係があるだろう。
だから愛は保険を求めるのだ。
しかしあなたの愛する人とあなた自身が他者であることは認識すべきだ。

私も時々は可能性の不安に押しつぶされそうになる。
成功者になる可能性と同じだけ失敗者になる可能性があるからだ。
しかしそのたびに私は可能性におびえないように自分を戒める。

私が将来に保険をかけて可能性を削除することは私に安定を与える代わりに成功も失敗も与えない。
成功も失敗もないということは幸福も不幸も薄くなるということだ。

私は人生に夢を見ている。
それは人生が濃いものであるはずだという希望だ。
私は薄い人生よりも濃い人生が好きなのだろう。

夢は不条理なものだ。
夢を持ち続ける限り不条理からは逃れられない。
不条理とは自分が予想していなかった可能性が突然現れることだ。
あらゆる幸福と不幸に不条理はつきまとう。
そしてそれは可能性が与え保険が切り捨てる最大の財産だ。

夢のない人間は居ない。
人には大なり小なり欲望があるからだ。
三大欲求の満たさない人間は生きていくことができない。
それは少なくとも欲望であり夢である。
どんなに保険によって切り捨てても不条理はあなたに付きまとう。

あなたは人間に生まれてしまったのだ。
それならばあなたは不条理から逃れることはできない。
しかし保険はあなたに人間を辞めることを求めるだろう。
それは保険の仕事が可能性を削除することだからに他ならない。
保険の不健全さはまさにここにある。

あえて強調するがここでいう保険は別に金銭における保険に限らない。
計画は容易に保険に変質する。
計画が明確な目的を持たず手段に変わったときがそれだ。

あなたは仕事で計画的にお金を稼ぎ計画的にお金を払う。
そうして生活を成り立たせている。
そうだとしよう。
このとき計画は明確な目的をもっているだろうか?
生活を成り立たせるのが目的なのだろうか?

それは「生活」しているのであって生きているのではない。
あなたの人生は「生活」に殺されてしまったのだ。
手段と目的を取り違えるとすぐにそんなことになる。

そうならないためにどうすればいいのか?
まずは考えることだ。
あなたの目的は何かと考えることだ。
無限の可能性の中からあなたが選び取ることだ。
それは夢を持つことに他ならない。

あなたは子供の頃から夢を失うように教育されてきた。
夢ではなく現実を見せつけることが今の教育の全てである。
それは現実を見せ付けて夢を失うことが人を計画的にするからだ。
幸福と不幸を小さくすることが計画的な社会に必要だからだ。
言うまでもなく教育は社会のためにあるのだ。

しかしあなたは社会のために存在しているのだろうか?
あなた自身よりも社会の方が大切なのだろうか?
そう思えるなら私は否定しない。
そういう人間も居るからだ。
しかしそういう人間はあまり多くはないと思う。

大抵の人は自分自身が世界で一番大切なはずだ。
少なくとも私はそうだ。
私は社会が計画的であることよりも私が幸せになりたいと思っている。

もう一度考えてみて欲しい。
自分自身のことや社会のことや世界のことを。
あなたに保険という不健全さを持つ魔法をかけさせるのは何なのか?

あなたの安定を求めているのはあなたではなく社会です。

2009年3月11日水曜日

提出した寸評。

シミュレーショニズム 椹木野衣
本書は1980年代に勃興し、1990年代を蹂躙し、2000年代の今なお多大な影響を与える、シミュレーショニズムに関する、1991年時点での批評である。シミュレーショニズムとはサンプリング、カットアップ、リミックスを基本とし、暴力的なまでに既存の素材を脱構築することによって表現を成立させようとする思想だ。また著者の椹木野衣はキュレーターとしても活動しており、評論家に留まらない横断的な活動をする人物と言える。この実状に対する経験を備え、なおかつ広範な教養を基礎とした批評は、まさに私の目指す一つの理想的なモデルでもある。
誤解を恐れずに言うならば、私は今までこれほど説得力のある批評を読んだことがない。それではなぜこの批評はこれほどの説得力を持ちえたのだろうか。私はその大きな要因に著者の露悪的なまでの開き直りがあるのではないかと思う。著者は導入から「恐れることはない、とにかく盗め」と熱情的に語る。この詩的なまでの表現は、書かれている内容の過激さと相まって、読者に強烈な印象を植え付ける。そして次々に展開される言葉は、決して感情的になりすぎることなく的確に状況を分析していく。さらにその言葉に対する個別具体例として、ひっきりなしに膨大な引用がなされている。そして私が最も露悪的で説得力があると思うのは、この暴力的なシミュレーショニズムという思想に対して、著者が肯定的であり続けるという姿勢である。普通、人は新しく現れた暴力的な存在に対し、否定的な姿勢をとろうとする。しかし著者は本書の中で肯定的な姿勢を崩すことは無い。それはこのシミュレーショニズムに対する絶対の確信であり、読者はその絶対的な確信の姿勢から説得力を感じるのである。

2009年3月6日金曜日

自作引用4

さらばランボー、街角のファミレスでウェイトレスをする母親ぐらいの女。
フィクション、ノンフィクション、酔いどれ詩人とヤク中から化石みたいな埃っぽさ。
電車で眠るカップルの男に目が行くヤツは不幸を噛み締めろ。
上着はボロボロの癖に肌はツヤツヤな女がモダンタイムを踏み荒らす。
奴の名はガートルードステイン!
ガートルードステイン!ガートルードステイン!ガートルードステイン!
切り裂きジャックより狂暴な心が猟奇的な彼女をあざ笑う。
オーマイゴッド、付け焼き刃だけで戦うならオススメは木刀だ。
そいつを持って本門寺に殴り込み御会式を凌駕する騒音で鐘を鳴らせ。
俺が狂い叫び、笑い泣き、打ち壊し、投げ捨てる、やがてなくなるものたちが奴の名を消す。
奴の名の名はガートルードステイン!
ガートルードステイン!ガートルードステイン!ガートルードステイン!

2009年3月2日月曜日

一週間程、更新が空いた。

俺は普通の人に比べて記憶力が悪いらしい。色々と考えた結果そう思った。一歩間違えれば若年生健忘症ではないかと思うぐらいである。なにせ高校一年の時に自分が何をしていたのか全く記憶がないのだ。高校二年は怪しいが少し残っている。しかしそれ以前になると残っている資料を見ないと何も思い出せない。そして更に驚くべきことは、その事実に気がついた時に俺は異常な恐怖で汗が止まらなくなったと言う事だ。まるで気付いては行けない事に気付いてしまったと言わんばかりに、体は不安を訴えている。これは紛れも無く恐怖である。いまでも自分が消えてしまいそうな恐怖に怯えてキーを叩いている。もしかして俺は物凄く鈍感だったのかもしれない。なぜいままでこんな恐怖に気付かずに生きて来たのだろうか。まるで自分が存在しなかったかのように、何も残らないような人生を俺は生きているのだ。それともこれは気付いてはいけなかったのだろうか。気付かない事で自我を保てるということなのだろうか。強烈な不安感から体中がおかしくなっている様な気さえする。時折、頭痛が襲って来る。いったいどうしたというのだろう。情緒不安定だ。一週間程、あまり家からでないで考え事をしていたからかもしれない。外に出て体を動かす事だ。そうするべきだ。もしこの日記を読んだ人で、俺に記憶が無いのが一般的かどうか答えられる人が居たら連絡して来て欲しい。俺はどうすれば良いのか解らず莫大な空白の時間の前で立ち往生している。迷子と同じ気分だ。いますぐにでも涙が出そうだ。いったいどうしたというのだろう。まるで解けるかの様に自分が消えてしまいそうな気さえする。俺には強烈な記憶が何一つ無い。俺は刺激的な人生を送ろうと果敢に挑戦して来たつもりだった。しかし俺には強烈に残っている記憶は何一つ無い。だから全てが断片にしか思えないのだ。次から次へ断片だけが量産されて行く。核となる部分が一つもない。唯一覚えているのは飼っていたハムスターと小鳥が死んだときのことだ。でもそれすら具体的な年度がわからない。その程度か、俺の人生は。いったいどうなってるんだ。このまま消えた方がいっそ幸せに思えて来る。明日から何かを探す気になれない。探したのではなかったのか。ここ十年間。探し続けた筈だった。しかし断片以外何も残っていない。あれはいつのことだったのだろう。何も覚えていない。確かな事なんて何も無かったのではないか。もしかして全て夢だったのではないのか。だれか永劫続くこの世界から俺を救い出してくれ。いつまででもこうして書いていられそうだ。それなのに書いた先からすべてが消えていってしまいそうだ。とにかく誰か連絡をくれ。俺をこの退屈な日常から救い出す連絡をくれ。退屈な日常は忘れられて遂には何も残らない。そんな世界に生まれたのだとしたらあとは絶望しか残っていない。いい加減に待ちくたびれた。誰か連絡を。