意味を求める人間は、何か行動を起こすために、動機を必要とする。
そして、何も行動を起こさないことは、死んでいるのと同じことだ。
俺はこの一年間、これから必要になるであろう、横断的な武器と客観的な視点を手に入れるために、生きていることをやめた。全ての価値をそこに見出して、行動原理とした。そして時は満ちた。そう思う。
さあ、芸術を殺しに行こう。
明治維新の時に外来種として日本に寄生した芸術を、先人たちはおっかなびっくり生かし続けてきた。その結果として現在、日本では息も絶え絶えな芸術にどうにかして餌を与えて生かしている。
さあ、芸術を殺しに行こう。
日本には真理などなかった。
はじめから必要なかったのだ。
私たちはそれに気づかなければならない。
さあ、芸術を殺しに行こう。
俺たちは実験し、感染し、傾倒し、笑いつくして今日に至った。
西洋かぶれとキチガイ沙汰だけがかろうじてそこに残された存在ならば、それはもはや必要ないし破壊する以外に救いは存在しない。
さあ、芸術を殺しに行こう。
作家をみよ。絵画をみよ。漫才をみよ。演劇をみよ。学問をみよ。音楽をみよ。彫刻をみよ。建築をみよ。写真をみよ。舞踏をみよ。
村上春樹を、村上隆を、あらびき団を、野田秀樹を、宮台真司を、岡村靖幸を、イサムノグチを、安藤忠雄を、篠山紀信を、上野隆博を、みよ。
西洋かぶれとキチガイ沙汰をしかと目に焼き付けよ。
さあ、芸術を殺しに行こう。
あるいは、俺は保守的なのかもしれない。
しかし真に革新的であるならば必要なのは更地だと気づくはずだ。
新しくそこに何かを創造するには綺麗な場所を用意しなければならない。
さあ、芸術を殺しに行こう。
必要なのは自身すらも保持できるかわからない徹底的な破壊である。
そんなことはお前の仕事じゃないと言われるかもしれない。
しかし俺はそうは思わない。まだまだ破壊が足りない。
インターネットとサブプライムローンだけでは足りないのだ。
さあ、芸術を殺しに行こう。
それが今、俺の仕事だ。
2009年8月7日金曜日
2009年7月8日水曜日
保険の不健全さ
保険と計画は紙一重である。
私たちは不確定な将来に対し大なり小なりみな計画を立てて生きる。
計画を立てて生きることは確かに有用である。
何かをしようと思ったとき、ある程度の計画を立てないと実行できないという事実は常に付きまとうからだ。
しかし計画を立てるということは可能性を削るということである。
計画のために必要な要素はあらかじめない物として取り扱われるからだ。
たとえば時間。
私たちは最初、1日24時間の時間を与えられる。
みな同じだ。
しかし時間に追い掛け回される人とそうでない人が居る。
時間に追い掛け回される人は計画的な人だ。
計画的な人にとって自分が何時に何をしているかは決められている。
逆に言えば無限の可能性からそれ以外の選択肢を削除している。
ここで一つ明言しよう。
私たちは可能性におびえている。
取りうる選択肢の多さにおびえている。
計画的であることは何を引き起こすのか?
予定は埋まりあなたの将来は可能性の代わりに安定を手に入れる。
しかし本質的に人は安定することはできない。
明日死んでしまう可能性を誰がゼロだと言い切れるだろう?
そしてここに不条理が生じる。
あなたは死ぬ可能性を考えて生命保険をかける。
死んでしまった後のことなんてあなた自身には関係がないのに。
もしかしたらあなたの愛する人には関係があるだろう。
だから愛は保険を求めるのだ。
しかしあなたの愛する人とあなた自身が他者であることは認識すべきだ。
私も時々は可能性の不安に押しつぶされそうになる。
成功者になる可能性と同じだけ失敗者になる可能性があるからだ。
しかしそのたびに私は可能性におびえないように自分を戒める。
私が将来に保険をかけて可能性を削除することは私に安定を与える代わりに成功も失敗も与えない。
成功も失敗もないということは幸福も不幸も薄くなるということだ。
私は人生に夢を見ている。
それは人生が濃いものであるはずだという希望だ。
私は薄い人生よりも濃い人生が好きなのだろう。
夢は不条理なものだ。
夢を持ち続ける限り不条理からは逃れられない。
不条理とは自分が予想していなかった可能性が突然現れることだ。
あらゆる幸福と不幸に不条理はつきまとう。
そしてそれは可能性が与え保険が切り捨てる最大の財産だ。
夢のない人間は居ない。
人には大なり小なり欲望があるからだ。
三大欲求の満たさない人間は生きていくことができない。
それは少なくとも欲望であり夢である。
どんなに保険によって切り捨てても不条理はあなたに付きまとう。
あなたは人間に生まれてしまったのだ。
それならばあなたは不条理から逃れることはできない。
しかし保険はあなたに人間を辞めることを求めるだろう。
それは保険の仕事が可能性を削除することだからに他ならない。
保険の不健全さはまさにここにある。
あえて強調するがここでいう保険は別に金銭における保険に限らない。
計画は容易に保険に変質する。
計画が明確な目的を持たず手段に変わったときがそれだ。
あなたは仕事で計画的にお金を稼ぎ計画的にお金を払う。
そうして生活を成り立たせている。
そうだとしよう。
このとき計画は明確な目的をもっているだろうか?
生活を成り立たせるのが目的なのだろうか?
それは「生活」しているのであって生きているのではない。
あなたの人生は「生活」に殺されてしまったのだ。
手段と目的を取り違えるとすぐにそんなことになる。
そうならないためにどうすればいいのか?
まずは考えることだ。
あなたの目的は何かと考えることだ。
無限の可能性の中からあなたが選び取ることだ。
それは夢を持つことに他ならない。
あなたは子供の頃から夢を失うように教育されてきた。
夢ではなく現実を見せつけることが今の教育の全てである。
それは現実を見せ付けて夢を失うことが人を計画的にするからだ。
幸福と不幸を小さくすることが計画的な社会に必要だからだ。
言うまでもなく教育は社会のためにあるのだ。
しかしあなたは社会のために存在しているのだろうか?
あなた自身よりも社会の方が大切なのだろうか?
そう思えるなら私は否定しない。
そういう人間も居るからだ。
しかしそういう人間はあまり多くはないと思う。
大抵の人は自分自身が世界で一番大切なはずだ。
少なくとも私はそうだ。
私は社会が計画的であることよりも私が幸せになりたいと思っている。
もう一度考えてみて欲しい。
自分自身のことや社会のことや世界のことを。
あなたに保険という不健全さを持つ魔法をかけさせるのは何なのか?
あなたの安定を求めているのはあなたではなく社会です。
私たちは不確定な将来に対し大なり小なりみな計画を立てて生きる。
計画を立てて生きることは確かに有用である。
何かをしようと思ったとき、ある程度の計画を立てないと実行できないという事実は常に付きまとうからだ。
しかし計画を立てるということは可能性を削るということである。
計画のために必要な要素はあらかじめない物として取り扱われるからだ。
たとえば時間。
私たちは最初、1日24時間の時間を与えられる。
みな同じだ。
しかし時間に追い掛け回される人とそうでない人が居る。
時間に追い掛け回される人は計画的な人だ。
計画的な人にとって自分が何時に何をしているかは決められている。
逆に言えば無限の可能性からそれ以外の選択肢を削除している。
ここで一つ明言しよう。
私たちは可能性におびえている。
取りうる選択肢の多さにおびえている。
計画的であることは何を引き起こすのか?
予定は埋まりあなたの将来は可能性の代わりに安定を手に入れる。
しかし本質的に人は安定することはできない。
明日死んでしまう可能性を誰がゼロだと言い切れるだろう?
そしてここに不条理が生じる。
あなたは死ぬ可能性を考えて生命保険をかける。
死んでしまった後のことなんてあなた自身には関係がないのに。
もしかしたらあなたの愛する人には関係があるだろう。
だから愛は保険を求めるのだ。
しかしあなたの愛する人とあなた自身が他者であることは認識すべきだ。
私も時々は可能性の不安に押しつぶされそうになる。
成功者になる可能性と同じだけ失敗者になる可能性があるからだ。
しかしそのたびに私は可能性におびえないように自分を戒める。
私が将来に保険をかけて可能性を削除することは私に安定を与える代わりに成功も失敗も与えない。
成功も失敗もないということは幸福も不幸も薄くなるということだ。
私は人生に夢を見ている。
それは人生が濃いものであるはずだという希望だ。
私は薄い人生よりも濃い人生が好きなのだろう。
夢は不条理なものだ。
夢を持ち続ける限り不条理からは逃れられない。
不条理とは自分が予想していなかった可能性が突然現れることだ。
あらゆる幸福と不幸に不条理はつきまとう。
そしてそれは可能性が与え保険が切り捨てる最大の財産だ。
夢のない人間は居ない。
人には大なり小なり欲望があるからだ。
三大欲求の満たさない人間は生きていくことができない。
それは少なくとも欲望であり夢である。
どんなに保険によって切り捨てても不条理はあなたに付きまとう。
あなたは人間に生まれてしまったのだ。
それならばあなたは不条理から逃れることはできない。
しかし保険はあなたに人間を辞めることを求めるだろう。
それは保険の仕事が可能性を削除することだからに他ならない。
保険の不健全さはまさにここにある。
あえて強調するがここでいう保険は別に金銭における保険に限らない。
計画は容易に保険に変質する。
計画が明確な目的を持たず手段に変わったときがそれだ。
あなたは仕事で計画的にお金を稼ぎ計画的にお金を払う。
そうして生活を成り立たせている。
そうだとしよう。
このとき計画は明確な目的をもっているだろうか?
生活を成り立たせるのが目的なのだろうか?
それは「生活」しているのであって生きているのではない。
あなたの人生は「生活」に殺されてしまったのだ。
手段と目的を取り違えるとすぐにそんなことになる。
そうならないためにどうすればいいのか?
まずは考えることだ。
あなたの目的は何かと考えることだ。
無限の可能性の中からあなたが選び取ることだ。
それは夢を持つことに他ならない。
あなたは子供の頃から夢を失うように教育されてきた。
夢ではなく現実を見せつけることが今の教育の全てである。
それは現実を見せ付けて夢を失うことが人を計画的にするからだ。
幸福と不幸を小さくすることが計画的な社会に必要だからだ。
言うまでもなく教育は社会のためにあるのだ。
しかしあなたは社会のために存在しているのだろうか?
あなた自身よりも社会の方が大切なのだろうか?
そう思えるなら私は否定しない。
そういう人間も居るからだ。
しかしそういう人間はあまり多くはないと思う。
大抵の人は自分自身が世界で一番大切なはずだ。
少なくとも私はそうだ。
私は社会が計画的であることよりも私が幸せになりたいと思っている。
もう一度考えてみて欲しい。
自分自身のことや社会のことや世界のことを。
あなたに保険という不健全さを持つ魔法をかけさせるのは何なのか?
あなたの安定を求めているのはあなたではなく社会です。
2009年3月11日水曜日
提出した寸評。
シミュレーショニズム 椹木野衣
本書は1980年代に勃興し、1990年代を蹂躙し、2000年代の今なお多大な影響を与える、シミュレーショニズムに関する、1991年時点での批評である。シミュレーショニズムとはサンプリング、カットアップ、リミックスを基本とし、暴力的なまでに既存の素材を脱構築することによって表現を成立させようとする思想だ。また著者の椹木野衣はキュレーターとしても活動しており、評論家に留まらない横断的な活動をする人物と言える。この実状に対する経験を備え、なおかつ広範な教養を基礎とした批評は、まさに私の目指す一つの理想的なモデルでもある。
誤解を恐れずに言うならば、私は今までこれほど説得力のある批評を読んだことがない。それではなぜこの批評はこれほどの説得力を持ちえたのだろうか。私はその大きな要因に著者の露悪的なまでの開き直りがあるのではないかと思う。著者は導入から「恐れることはない、とにかく盗め」と熱情的に語る。この詩的なまでの表現は、書かれている内容の過激さと相まって、読者に強烈な印象を植え付ける。そして次々に展開される言葉は、決して感情的になりすぎることなく的確に状況を分析していく。さらにその言葉に対する個別具体例として、ひっきりなしに膨大な引用がなされている。そして私が最も露悪的で説得力があると思うのは、この暴力的なシミュレーショニズムという思想に対して、著者が肯定的であり続けるという姿勢である。普通、人は新しく現れた暴力的な存在に対し、否定的な姿勢をとろうとする。しかし著者は本書の中で肯定的な姿勢を崩すことは無い。それはこのシミュレーショニズムに対する絶対の確信であり、読者はその絶対的な確信の姿勢から説得力を感じるのである。
本書は1980年代に勃興し、1990年代を蹂躙し、2000年代の今なお多大な影響を与える、シミュレーショニズムに関する、1991年時点での批評である。シミュレーショニズムとはサンプリング、カットアップ、リミックスを基本とし、暴力的なまでに既存の素材を脱構築することによって表現を成立させようとする思想だ。また著者の椹木野衣はキュレーターとしても活動しており、評論家に留まらない横断的な活動をする人物と言える。この実状に対する経験を備え、なおかつ広範な教養を基礎とした批評は、まさに私の目指す一つの理想的なモデルでもある。
誤解を恐れずに言うならば、私は今までこれほど説得力のある批評を読んだことがない。それではなぜこの批評はこれほどの説得力を持ちえたのだろうか。私はその大きな要因に著者の露悪的なまでの開き直りがあるのではないかと思う。著者は導入から「恐れることはない、とにかく盗め」と熱情的に語る。この詩的なまでの表現は、書かれている内容の過激さと相まって、読者に強烈な印象を植え付ける。そして次々に展開される言葉は、決して感情的になりすぎることなく的確に状況を分析していく。さらにその言葉に対する個別具体例として、ひっきりなしに膨大な引用がなされている。そして私が最も露悪的で説得力があると思うのは、この暴力的なシミュレーショニズムという思想に対して、著者が肯定的であり続けるという姿勢である。普通、人は新しく現れた暴力的な存在に対し、否定的な姿勢をとろうとする。しかし著者は本書の中で肯定的な姿勢を崩すことは無い。それはこのシミュレーショニズムに対する絶対の確信であり、読者はその絶対的な確信の姿勢から説得力を感じるのである。
2009年3月6日金曜日
自作引用4
さらばランボー、街角のファミレスでウェイトレスをする母親ぐらいの女。
フィクション、ノンフィクション、酔いどれ詩人とヤク中から化石みたいな埃っぽさ。
電車で眠るカップルの男に目が行くヤツは不幸を噛み締めろ。
上着はボロボロの癖に肌はツヤツヤな女がモダンタイムを踏み荒らす。
奴の名はガートルードステイン!
ガートルードステイン!ガートルードステイン!ガートルードステイン!
切り裂きジャックより狂暴な心が猟奇的な彼女をあざ笑う。
オーマイゴッド、付け焼き刃だけで戦うならオススメは木刀だ。
そいつを持って本門寺に殴り込み御会式を凌駕する騒音で鐘を鳴らせ。
俺が狂い叫び、笑い泣き、打ち壊し、投げ捨てる、やがてなくなるものたちが奴の名を消す。
奴の名の名はガートルードステイン!
ガートルードステイン!ガートルードステイン!ガートルードステイン!
フィクション、ノンフィクション、酔いどれ詩人とヤク中から化石みたいな埃っぽさ。
電車で眠るカップルの男に目が行くヤツは不幸を噛み締めろ。
上着はボロボロの癖に肌はツヤツヤな女がモダンタイムを踏み荒らす。
奴の名はガートルードステイン!
ガートルードステイン!ガートルードステイン!ガートルードステイン!
切り裂きジャックより狂暴な心が猟奇的な彼女をあざ笑う。
オーマイゴッド、付け焼き刃だけで戦うならオススメは木刀だ。
そいつを持って本門寺に殴り込み御会式を凌駕する騒音で鐘を鳴らせ。
俺が狂い叫び、笑い泣き、打ち壊し、投げ捨てる、やがてなくなるものたちが奴の名を消す。
奴の名の名はガートルードステイン!
ガートルードステイン!ガートルードステイン!ガートルードステイン!
2009年3月2日月曜日
一週間程、更新が空いた。
俺は普通の人に比べて記憶力が悪いらしい。色々と考えた結果そう思った。一歩間違えれば若年生健忘症ではないかと思うぐらいである。なにせ高校一年の時に自分が何をしていたのか全く記憶がないのだ。高校二年は怪しいが少し残っている。しかしそれ以前になると残っている資料を見ないと何も思い出せない。そして更に驚くべきことは、その事実に気がついた時に俺は異常な恐怖で汗が止まらなくなったと言う事だ。まるで気付いては行けない事に気付いてしまったと言わんばかりに、体は不安を訴えている。これは紛れも無く恐怖である。いまでも自分が消えてしまいそうな恐怖に怯えてキーを叩いている。もしかして俺は物凄く鈍感だったのかもしれない。なぜいままでこんな恐怖に気付かずに生きて来たのだろうか。まるで自分が存在しなかったかのように、何も残らないような人生を俺は生きているのだ。それともこれは気付いてはいけなかったのだろうか。気付かない事で自我を保てるということなのだろうか。強烈な不安感から体中がおかしくなっている様な気さえする。時折、頭痛が襲って来る。いったいどうしたというのだろう。情緒不安定だ。一週間程、あまり家からでないで考え事をしていたからかもしれない。外に出て体を動かす事だ。そうするべきだ。もしこの日記を読んだ人で、俺に記憶が無いのが一般的かどうか答えられる人が居たら連絡して来て欲しい。俺はどうすれば良いのか解らず莫大な空白の時間の前で立ち往生している。迷子と同じ気分だ。いますぐにでも涙が出そうだ。いったいどうしたというのだろう。まるで解けるかの様に自分が消えてしまいそうな気さえする。俺には強烈な記憶が何一つ無い。俺は刺激的な人生を送ろうと果敢に挑戦して来たつもりだった。しかし俺には強烈に残っている記憶は何一つ無い。だから全てが断片にしか思えないのだ。次から次へ断片だけが量産されて行く。核となる部分が一つもない。唯一覚えているのは飼っていたハムスターと小鳥が死んだときのことだ。でもそれすら具体的な年度がわからない。その程度か、俺の人生は。いったいどうなってるんだ。このまま消えた方がいっそ幸せに思えて来る。明日から何かを探す気になれない。探したのではなかったのか。ここ十年間。探し続けた筈だった。しかし断片以外何も残っていない。あれはいつのことだったのだろう。何も覚えていない。確かな事なんて何も無かったのではないか。もしかして全て夢だったのではないのか。だれか永劫続くこの世界から俺を救い出してくれ。いつまででもこうして書いていられそうだ。それなのに書いた先からすべてが消えていってしまいそうだ。とにかく誰か連絡をくれ。俺をこの退屈な日常から救い出す連絡をくれ。退屈な日常は忘れられて遂には何も残らない。そんな世界に生まれたのだとしたらあとは絶望しか残っていない。いい加減に待ちくたびれた。誰か連絡を。
2009年2月26日木曜日
晴耕雨読。
昔からあまりやりたいことがなかった。今でもあまりない。それでもとにかく何かをやり続けようとしてきた。どうやらそれが世間では普通みたいだからである。アイデンティティの問題からはとっくに自由になっていると思う。俺は俺であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。だから何かをやってそれにアイデンティファイするつもりはない。それでもなお何かを続けようと思う。意味の問題から開放されても、意味を作るという、意味のない行為が、どうなっていくのだろうかということに、興味ではなく、惰性の快感を得ているのではないかと思う。本来なら俺は晴耕雨読を志す人間だ。しかしそのように生まれつかなかった。環境的な現実と、精神的な理想の軋轢が、今の奇妙な状態を作り出した。そしてその奇妙さを楽しもうと言う前向きな姿勢を持とうとした成れの果てであるように思う。軋轢に気づくのが遅かったのかもしれない。気づくのが早ければもっと極端な方向になっていたのだろうと思う。しかし極端な方向に行くほど、軋轢を感じられる敏感さを持ち合わせていなかったのだ。中庸を延々に走り抜けた結果最後に会ったのはやはり中庸だった。何にも妥協しなかった結果、全てを妥協する事に行き着いた。晴耕雨読。晴れの日は耕し、雨の日は読むのだ。俺は全てを妥協する。しかしそれに関してだけは妥協しないつもりだ。
2009年2月23日月曜日
板の上に立つ。
表現難民互助会というところに出てきた。漫才をした。一緒に出た人が全部お膳立てしてくれたので初めての漫才にしては良かったと思う。良い経験をさせてもらった。よく舞台上でパフォーマンスをする人たちが「板の上に立つ」という表現をするが、その感覚を味わえたのが一番の収穫だった。本番前は緊張して自分でも何をやってるんだかわからなくなる。というかあまり覚えていない。気持ち悪いのにココアを飲んで腹が膨れて本番直前にトイレに行きたくなるとかいう、意識が生理現象とかみ合わない感覚。それが舞台に出た瞬間にぱーっと消え去ってゆく。これは面白い。そして終わった後のあのカタルシスと空腹具合といったらもう!あれが「板の上に立ちたい」ともう一度させる麻薬なのだろうと思った。そして俺はそれが好きみたいだ。しかし昔から俺は何にもはまることなく生きてきた。プラモデル、ラジコン、テレビ、インターネット、小説、将棋、オセロ、チェス、路上パフォーマンス、音楽、酒、煙草、睡眠薬、ギャンブル、そして文章をかくというこのブログでさえも義務感がゼロかといわれればそんなことはない。いままでどんなことをしても、どんなものを見つけても、何に対しても、愛着がわかないまま生きてきた。瞬間瞬間、それらを愛することはある。でもその瞬間と瞬間をつなぐために義務感が生まれ、それに耐えられなくなって、やがては離れてしまう。どうすればいいのだろう。このまま一生、つまらない人生を過ごすのだろうか。やけっぱちになるのは飽きた、しかしやけにならずに居るのにはとっくの昔に飽きている。もはや生きることすら義務感を覚える。でも何かをやっている、その何かはなんでもいい、何かをやっている時だけ、義務感を忘れることが出来る。こうしていま文章を書いている間だけ、義務感を忘れることが出来る。何かどうしても読みたい本を読んでいる間だけ、義務感を忘れることが出来る、誰かと話している間だけ、義務感を忘れることが出来る。義務感、義務感、義務感、永遠に続く義務感。もううんざりだ。しかし逃げる場所は無い。唯一あるとすれば、何かをしたいときにすることだ。そして、しなければならないことをしたくないときに強要されそうになったとき、言い訳を残して逃げる。それが俺の生き方かもしれない。何も出来ない。それでは何も出来ない。そういわれる。そして自分でもそう思う。だから今は耐えるべき義務感と、耐えなくても良い義務感に線引きをしている。どうせどれにも義務感を感じるならば、その中で感じるべきものと感じないでよいものをせめて区切っておこう。それが今現在の自分の処世術である。閑話休題、板の上に立つことに、一つの義務感があった。それは乗ってしまった義務感であり、それをやらずに何をやる?という義務感であり、それによって世界が開けるための義務感であった。結果、それによって俺はたくさんの幸せを手に入れた。俺は本当に良かったと思っている。できることならまた出たいと思うが、そういう機会に恵まれるかは分からない。その場その場で最善を尽くすだけである。とにかく今は映画を撮ること、小説を書くこと、そして様々なものに触れること、それらを少しずつ進めていきたい。それが俺にできることなのだ。そんなことを考えている。
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